鳥篭の夜は明けず



 玄関の扉を開けると、奥から小さな足音が駆けて来た。この借家のもう一人の住人だ。白いワンピースの裾を揺らしながら、その血色の悪い顔に出迎えられる。外に出ないからか、ここで暮らすようになってもの顔色の悪さは一向に治る気配を見せない。屹度、他の人間だったらこのような顔の人間に帰りを待たれているのは嫌だろう―――太宰はそのような事を考えながら玄関を上がった。ただいま、とに声をかければ、「お帰りなさいませ」と、熟れた果実のような紅い唇から、の高い声が発せられる。
 と暮らすようになってから、詳しくは覚えていないがもう数年が経つ。だから、探偵事務所で「最近女性と同居しているらしい」というのは少し間違いである。最近の話ではないのだ。
 太宰が仕事に行っている間ははずっと家で過ごしている。日がな、家から一歩も外へ出ず。日用品や食材の調達は太宰が時々行うか、大概が通信販売などを利用しており、は外へ出る事を酷く嫌がった。常人ならば気が狂いそうになる生活だ。だが、で元より狂った生活を送っていた為、別段何処かに支障を来していると言う事は無いようである。

「…機嫌が宜しいようですね」
「分かるかい」
「何となくです」
「うん、機嫌が良いんだ」

 昼間、事務所での事を打ち明けた時の皆の反応を思い出し、一人笑う。そんな太宰を見てはただ首を傾げた。
 太宰としては、の存在は探偵事務所の人間になら誰に知られようと構わなかった。誰も聞いて来ないだけで、聞かれれば隠す心算もなかたのだ。太宰が女性と同居していると言う噂は蔓延していたものの、誰もが腫れ物に触るかのように知らない振りをしていた。恐らくと言う同居人を知った暁には面白い反応をしてくれるだろうとは思っていたが、予想通りだった。だが、自身はその存在を知られる事を好としていない為、今日の事を知れば怒るに違いない。

は今日も一日家の中に居たのかい」

 答えの決まっている質問をにぶつければ、「ええ」とこれもまた予想通りの返事が来た。干渉する心算は無いが、それでも時々は外に出てみれば良いのに、と太宰は思う。の恐れている事が何なのかは理解しているが、矢張り外の世界を知らないままと言うのは、元の世界から抜け出して来た意味が無い。
 と太宰が出会ったのは、所謂娼館だった。家の事情で其処へ売られたを更に買ったのが太宰である。幸か不幸か、は特別華のある容姿でもなかったため、娼婦として其処に居た訳ではない。掃除やら経理やら、雑用を主に任されていたのがだったのだ。
 は要領も物覚えも良かった為、娼館の人間からは使える人材として気に入られていたようだ。だがそれも、自身を見られていた訳ではない。淡々と業務をこなす機械のように思われていたのだろう。

「…、明日」
「行きません」
「まだ何も言ってないじゃないか」
「私を外へ連れ出したいのでしょう」
「バレていたか…」
「貴方が明日の話をする時は大概其れですから」

 外へは行きません。再度、はきっぱりとそう告げた。これにはやれやれ、と太宰も肩を竦めて見せる。こうなるとは頑固だ。大抵の事に「良いのではないですか」と適当な返事をするのだが、家の外へ出る事にだけは首を縦に振らない。彼女が外に出るのは、ポストに新聞を取りに行く時くらいだろうか。
 太宰はの血色が悪かろうと、健康的でなかろうと、それくらいの事で嫌いになりはしない。それを改善させようと外へ誘っている訳ではない。たまには付き合ってくれても良いのではないかと言っているのだ。に心中マニュアルの実践に付き合ってくれと言っている訳ではない。無理強いは太宰のポリシーに反する。
 一緒に出掛けないかと誘い続けて数年、そろそろ折れてはくれないだろうか。非番の日にと家の中でのんびり過ごすのもそれはそれで悪くはないが、面白い本を見付けた時、美味しい物を食べた時、真っ先に浮かぶのはの顔なのだ。

「私が相手では、面白く無いでしょうに…」
「そんな事は無いよ」
「このような見てくれの女を連れて居ては気味悪がられますよ」
「私は周りの目と言う瑣末な事は気にしない主義だ」
「しかし…」

 未だ渋る。とうとう俯いてしまった。いつもは此処まで押したりはしない為、余計も戸惑っているのだろう。太宰は睫毛を震わせ黙るの頬にそっと触れた。見た目よりもずっと血の通った温度を持つ身体を確かめる度、密かに太宰は安堵している。まだこの子は生きているのだと。目の前で動いて喋っていれども、触れて確認する以上の安心材料は無い。
 太宰の手の上に、更に自身の手を重ねてはゆっくりと顔を上げた。彩の無い相貌が太宰を見つめる。出会った頃よりも幾分か削がれた彼女の眼に映る絶望。されど冷たさだけは健在で、暗い二つの眼に射抜かれると太宰はを滅茶苦茶にしたい衝動に駆られる。だがそこから現実に引き戻すのは何時もの声で、実際に衝動の儘に彼女を抱いた事など一度も無い。

「昼でないと、いけませんか」
「と、言うと」
「夕刻以降ならば…」

 僅かに彼女の声が震えた。確かに、最初から真昼の街を歩くと言うのはハードルが高かったかも知れない。折角、が外に出ても良いと言う返事をしたのだ、それくらいの妥協は必要だろう。

「其の条件を呑もう」

 すると、はとん、と太宰の胸元に額を寄せた。は不安な時や怖い夢を見た時、太宰にこうして甘える癖がある。明日の事も大分不安らしい。太宰から離れないの背を、あやす様に撫でる。
 こう言う時、何とも言い難い感覚に襲われるのだ。庇護欲と言うのか、優越と言うのか、支配感とでも言うのか。に対し主導権イニシアチブ握っている事を実感するこの瞬間は、太宰の心が満たされる時間の一つだ。そのような薄暗い太宰の思考など知る由もなく、度々はこうして太宰に縋る。普段はつれない癖して、こう言う時ばかりはも太宰から離れられないのだ。

「貴方は飴と鞭の使い方がお上手だわ」
「私としてはを甘やかす方が好きだけれどね」
「嘘ばかり仰る」

 そう言い、眉根を寄せて怪訝そうな顔をする。彼女の表情が動く事は珍しく、太宰はつい笑みを漏らした。そうして更に眉間の皺を深くする。そんなの適当に結われた髪を解くと、其れを梳きながら頭に一つ唇を落とす。

「当ててあげよう、今晩は不安で不安で眠れない」
「分かり切った事を…」

 それでも彼女を外へ出す事は止めない。明日、外へ出た時にがどんな表情を見せるのか楽しみで仕方がないからだ。驚きか、怯えか、絶望か、或いはもっと他の感情が湧き出るだろうか。そうして彼女の新たな一面を見る度に、一層自分の元へ縛りつけて置きたくなるのだ。








(2014/04/23)