その人は、かつて将来を約束した人だった。何も知らずまだ若かった私たちが交わした約束。今でも時々思い出すのは、あの日、同じ傘の下で指先だけをそっと絡めていたこと。必要以上の言葉は何もなく、私も彼も、将来を誓いながらどこかでこれが最後の別れなのだと予感していた。もうこの人は、私の手の届かない人になるのだと、私はこの人との未来を信じながらも諦めていた。
 私は何の力も持たない非力な人間で、彼について行くと言えるほど強くはなく、いつ戻って来るのかも分からない彼をいつまでも待っていられるほど健気でもなかったのだ。けれど、今日ほど自分の選択を後悔したことはない。これほど強く、あの日に戻ってやり直したいと思ってことはない。
 約束通り、彼が迎えに来てくれる未来など、私は本当は少しも信じていなかったのだ。

「ガキがいたのか」
「…ええ、今年でもう七歳」

 あの日と同じ冷たい雨の降り続く中、リヴァイは紫陽花の花に手を伸ばす娘を見て目を細めた。どんな思いで娘を見ているのかは知らない。私は、そんな彼の横顔を見つめた。
あの頃とは違って鋭くなった眼、目の下にできた消えない隈。けれど声だけは変わらず、どこか皮肉を含み淡々として、そして多くを語らない。昔から私と彼の間に言葉は少なかったが、七年越しの再会だというのに相変わらず言葉は少なく、驚きも一瞬片眉を上げた程度だ。何の感慨も感動もない冷静な再会に、むしろ私は安堵した。私も泣かずに済んだからかも知れない。
 彼の訪問は本当に突然だった。雨が降っていると言うのに外へ出たがる娘に青い雨合羽を着せ、玄関のドアを開けたその時だった。いつか未来を誓っておきながら別々の道を選んだ恋人がそこにいたのだ。
 何も知らない娘はリヴァイを私の友人だと思い、ぐいぐいと私と彼の手を引いて庭先に出る。小さな庭のついた小さな家は私たち親子には住み心地が良く、こうして娘と二人庭で遊ぶのがほぼ毎日の日課となっていた。それゆえ、今日もこうして外に出たがったのだが、もし娘が外に出たいと言い出さなければ、彼とこうして再会を果たすことはなかったかも知れない。彼も、玄関のドアをノックするつもりはなかったというのだ。もう玄関の前の軒先で一時間ほど待っていたのだと言う。

「七年か…長かったのか短かったのか」
「分からないわ、色んな事があり過ぎて」
「色んな事、か…」

 七年と言う歳月や娘の容姿からして、彼はきっと察しているのだろう。彼と別れたすぐ後に私の妊娠が発覚したこと―――あの子が誰の子どもなのかということも、彼に娘が生まれたことを決して言わなかった理由も。
 青い雨合羽の後ろ姿があっちへこっちへと走り回る度、私たちの目線もそれを追って右へ左へと動く。決して互いの視線は合わさないまま話を続けた。大きな黒い傘の下で、ただ一つあの日と違うのは、互いの指先が触れないこと。それと、あの頃よりも私たちが少しやつれたこと。それが、この七年間の全てを表していた。

「けど、お前は変わらないな」
「そうなのかな…」
「口で大丈夫だと言っておきながら、目が全く大丈夫そうじゃねぇ」

 はっとして隣を見上げれば、黒い双眸がこちらを見ていた。交わる視線に気まずくなり、そっと目を伏せる。しかし彼は私の頬に手を添えると、そっと上を向かせた。彼の目には、私は大層頼りなく映っているのだろう。本当にあの子を私一人の手で育てたのかと、彼は訝しんでいるようだ。
 リヴァイの言うとおり、私は七年前からちっとも変っていない。いつだって何事にも自信がなく、ふらふらと足取りは覚束ない。まして、子ども一人を抱えたとなれば、あっちへふらふら、こっちへふらふら、まるで弱い蝋燭の火のように頼りないだろう。少し息を吹きかければすぐに消えてしまいそうだ。
 それでも、あの子は私一人で育てた子だ。誰の手にも渡さず、誰の助けも得ず、私がたった一人で大切にして来た、愛しい彼との子どもなのだ。

「戻る気はねぇか」
「え…?」
「もう一度やり直す気はねぇのかって聞いてる」
「それは…私たち、が…?」
「他に何がある」

 息が詰まったように胸が苦しくなる。あの日、途切れた思った二人の道に、再び先が見えて来た。或いは、二手に分かれた道がもう一度交わったのか。どちらにせよ、彼の一言は私の心に一筋の希望の光を与えたのだ。
 傘が弾く雨粒の音が徐々に小さくなる。雨足が弱まってきたようだ。先程まで分厚かった雲もいくらか薄くなり、その内あの隙間から陽光が差し込んで来るのだろう。運が良ければ虹が見えるかも知れない。そうなるとこの傘も娘の雨合羽も用無しである。
 あの日は違った。リヴァイと一度別れた七年前のあの日は、夜遅くになっても激しい雨が降り続け、それに隠れるように私は一晩中泣いた。もう二度と会えないであろう彼を思い、ベッドの中で一人泣き続けたのだ。光も射さなければ虹が出ることもない暗い夜の闇に、もういっそ夜に溶けてなくなってしまいたいと思ったほどに、あの日は絶望に暮れた。
 こうして一人娘という新たな希望と共に生きては来たが、それでも埋められない心の虚をどうすることもできないまま、一抹の寂しさとも隣り合わせだった。「いつかまたきっと」と信じて別れた彼を信じ切ることができず、けれど諦めきることもできずに過去を引き摺る私の前に現れた彼。もう一度、を口にした彼が、ぴたりと心の隙間にはまる。

「もう一度、やり直せるかな」
「一人ではどうしようもねぇんだろうが」
「うん…」
「あいつも、俺とのガキなんだろ」
「うん…っ」

 雨が止む、陽が射す。心の雲も晴れて行く。代わりに、今度は涙が止まらなくなってしまった。ぼろぼろと大粒の涙が零れるせいで、目の前にあるはずの彼の顔が滲んでしまう。もっとちゃんと見なければと、彼の表情を焼き付けなければと思うのに、涙は一向に止まってくれそうにない。彼が両手で涙を拭ってくれるけれど、それも無駄みたいだ。

「こんなに泣いてるを見るのは初めてだ」
「この七年、ないてばっかりで…っ」

 仕方ねえな、と言って傘を投げ捨てると、彼は私を抱き締めた。まだ止み切っていない雨が、ぽつぽつと私たちの身体を濡らす。けれどその雨粒の冷たさ以上に、彼の身体が温かい。

「もう泣くな」

 自身に押し付けるかのように、私を抱く腕に力が込められる。このまま息が止まってしまうのではないかと思うほどに。
 庭にたくさんの紫陽花を植えたのは、あの日を忘れないためだった。雨が降れば、紫陽花が咲けば約束を、約束したあの日を思い出す。薄れさせたくなかった記憶を、紫陽花に重ねて咲かせた。いつまでこんな風に思い出すのを許されるのだろうと、毎年紫陽花が咲く度に思っていた。そしてその度に後悔した。縋りついてでも彼について行けば良かったのだろうかと、あなたの子どもを身籠ったのだと伝えれば良かったのだろうかと。けれどそのどれも正解ではなかったのだ。
 くいっと、スカートの裾を軽く引っ張られて視線を落とす。すると、不思議そうな顔をした娘がそこにはいる。私が彼から離れてしゃがみ、視線を合わせると不安げに揺れる幼い相貌。

「おかあさん、かなしいの?」
「悲しくないよ」
「じゃあ、なんでないてるの?」
「悲しくなくても泣いちゃうことはあるんだよ」

 そう言いながら、悲しみでない涙を流したことなどこの七年間なかったな、と思い出す。この子の前では決して泣かなかったけれど、もしかすると夜中に一人で涙を流している所を、一度や二度は見られていたかも知れない。

「でもね、大丈夫。もう泣かないから」

 そう言って小首を傾げる娘の頭を撫で、彼を見上げて微笑む。そしてようやく雨が止む。もう、私たちの間には傘は要らないのだろう。




I Will Wait for You


(2013/12/13 『シェルブールの雨傘』より)