衝 動





 パァン、という大きな乾いた音が体育館に響いた。途端に、じんじんと痛みの広がる私の左頬。それまで喋っていた部員のみんなも、一瞬にして静まり返った。

「わ…わり、」
「だいちゃん!?」

 青峰くんの言葉を遮って、さつきちゃんが私に駆け寄って来る。何が起こったか理解できない私は、衝撃の走った左頬にゆっくりと手をあてた。まだ、それほど熱は持っていないようだ。呆然と立ち尽くしていると、さつきちゃんは「こっちよ」と控室まで誘導する。あまりの驚きに記憶が一時停止していたが、そこでようやく今は体育館にいて、部活の休憩中だったことを思い出した。

「痛いでしょう?はい、氷」
「あ…うん……」

 まだぼうっとしたまま座るよう促され、さつきちゃんに渡された氷を受け取る。けれどその冷たさを以ってしても、まだ夢の中のような浮遊感から抜け出せずにいた。
 でも、きっと青峰くんの方が驚いているに違いない。私を叩(はた)いた瞬間、自分で自分が信じられないような顔をしていたのだ。あれは意識した訳ではなく、衝動的なものだった。だからどうしても、彼を責める気になれなかった。

「一体何があったの?言い争っているようには見えなかったのに」
「…………」
「ねえ」
「…青峰くん、足がおかしくて…」
「え?」

 本当にごく僅かだ。誰もが気付かないような些細な違いだった。それでも私だけが気付いた。彼自身は足に違和感があるのだと自覚していたようだけれど。それを彼に確認したいと、今日は練習が始まってから思っていた。本当は練習の途中で口を挟みたかったくらいだ。けれど結局言えず、今の休憩時間になってしまった。
 足、おかしくない。そう声をかけた。青峰くんのことだから隠しておきたいのだろうと思って、誰にも聞こえないようにたずねたのだ。けれどそれにすらかっとなったようで、つい私に手が出てしまったらしい。多分、さつきちゃんや他の部員が聞いたならこんなことにはならなかっただろう。

「青峰くんは悪くないよ」
「そんな訳ないじゃない」
「悪気はないから」
「悪気がなければ叩いて良いって言うの?」
「…他の人には手なんてあげないから大丈夫」

 だからといって、私が特別嫌われている訳ではないのだ。普段だって会話はするし、メールもするし、皆と一緒に帰ったりもする。その時、私にだけ冷たいなんていうことはないのだ。けれど不思議なことに、青峰くんに頬を打たれてショックだとか、悲しいとかいった気持ちは湧いて来ない。寧ろ安堵した。打たれて安心すると言うのも変な話だけど、安心したのだ。青峰くんは我慢し過ぎるきらいがある。ちゃんと人にも当たれるんだと思ってほっとした。
 その時、控室の扉が控えめにノックされる。「はーい!」とさつきちゃんが軽く返事をすると、そこにはバツの悪そうな顔をした青峰くんがいた。「そいつと話がしたい」そう言った青峰くんにさつきちゃんは躊躇いを見せる。振り返って私を窺ったので、「大丈夫だよ」と返すと、さつきちゃんは心配そうな顔をしながらも部屋を出てくれた。

「…悪かった」
「気にしてないよ」
「嘘つけ」
「本当」

 私が笑うと、青峰くんはギリ、と歯を噛み締めて大股で私に近付いた。そして痛いほどの力で私の両肩を掴む。

「もっと俺を責めろよ!」
「責めて欲しいの?」
「っお前、自分のされたこと分かってんのかよ!」
「分かってるからだよ」

 両腕を伸ばして、私は座ったまま青峰くんを抱きしめた。青峰くんは私を振り払おうとするけれど、それにも負けず彼を強く抱きしめる。だけど男女の差に勝てるはずがなく、とうとう突き飛ばされた私は勢いよく床に尻餅をついた。それを見た彼ははっとしてまた顔に動揺と困惑を滲ませる。

「…好きなの」
「は、」
「青峰くんが好きなんだよ。だからいいの、責めたくないし痛くもない」
「お前、何言…っ」
「青峰くんは私をそんな風に見てないことも知ってる。いいの、それで」

 青峰くんは私を嫌ってはいない。それで十分だった。それで良かった。それなのにほんの少しでも予想の反応と違えると期待してしまう。普段の青峰くんなら、足の違和感を指摘されても平然と何でもない振りしているか、上手く誤魔化すかのどちらかだ。そう取り繕う余裕すら生まれなかったのだとしたら、私に気付かれたくなかったのだとしたら、その他大勢と私との間にある違いに、どうしても望みをかけてしまう。けれど違う。青峰くんにはそんな気持ちはないのだ。

「練習戻って。足のことは誰にも言わないから」
「…………」
「変な疑いかけられて困るのは青峰くんだよ」

 ひらひらと手を振る。するとますます顔を歪めて青峰くんは私を見た。青峰くんがそんな表情する必要はないのに。やがて、「悪い」と低く呟くように告げると、青峰くんは振り返らずに控室を出て行った。何に対する謝罪なのか、そんなこと聞かなくても分かっている。けれど不思議だ。悲しいはずなのに嬉しかった。
 少し泣きながら、私は袋に入った氷を水道に捨てた。気持ちを溶かして捨てるみたいに。










(2012/09/26)