線路の向こうの思い出



「遠くに行きたいな」

 屋上のフェンスの向こう、空を見ながら言った。冬の空気は澄んで空は青く、この東京のど真ん中でも心なしか綺麗に見える。
 振り返ったは泣いていたのか、笑っていたのか、今でははっきり覚えていない。ただ、もう既にその時自分たちの未来は決まっていて、歩く道がどんどん離れて行くことを知っていた。今更どこにも行けないことも分かっていたのだ。その上で出た現実逃避の言葉に、俺は「じゃ、行くか」としか言えなかった。ポケットの中にはくしゃくしゃの千円札一枚だけ。

「大輝くん、海の見えるとこ行きたいな」
「おー」

 真昼の学校を抜け出し、できるだけ遠くまで行ける片道だけの切符を買って電車に飛び乗る。平日のこの時間帯の電車は流石に空いていて、横並びの座席の真ん中に俺たちは並んで座った。
 見慣れた景色が通り過ぎて行くのをただ見つめながら、電車が向かう場所へとただ従った。こんな風に、一本のレールの上をこいつと走れたならどんなに良かったことだろう。
 窓の外に海が見えてくるとは子どもみたいにはしゃいで見せる。けれど本当は、その心の中が悲しみで満ちていることを俺は知っていた。

「海だー!さむーい!」
「当たり前だろーが!」
「あはは!大輝くん震えてやんの!」
「今日最低気温何度だと思ってんだ!」
「大輝くん最低気温なんて言葉知ってんの!」

 おどけて見せるの頭をばしりと叩けば、仕返しだと言わんばかりに頭突きをかまして来る。これが結構強烈で、見事に顎に入った頭突きに頭の芯からぐらぐらと揺れた。顎を摩る俺を見てまたおかしそうに笑うと、波打際まで駆けて行く。砂に足をとられながらも何かの小動物のように喜ぶ姿を見て、つい俺の口元も緩んだ。
 が四月に大阪へ行ってしまうことは夏には決まっていた。一人暮らしの祖母と同居するため、大阪の大学へ進学するらしい。意外と家族思いのこいつは、離れた地に住む祖母が心配で仕方ないというのだ。
 はしゃいでいる後ろ姿に近付いて、俺は分かりきったことを聞いた。

、お前ほんとに大阪行くのかよ」
「行くよ」
「お前みたいなやつすぐいじめられんぞ」
「ひどーい!友達できるか心配してるのに!」
「いじめられてろ」
「大輝くんほんと最低、」
「そんで耐えられなくなってこっち戻って来たらいいんだ」

 何を言ってもが大阪へ行くのは止められなくて、変わることはなくて。けれど心のどこかで小さく期待してしまう。「やっぱり大阪には行かない」という一言が出るのを。
 誰よりも不安なのは本人のはずだ。十八年間過ごした家を出て、住み慣れた街を離れる。何もかもが違う場所へ一人で向かうのだ。

「私は行くよ」

 けれどは強かだ。いつだって困難にぶつかった時も一人で這い上がって見せた。誰かに泣いて縋ったり、助けを求めることなんてしなかった。
 だからきっと、一人でもやって行ける。見知らぬ街であろうと、なら笑って生きて行くのだろう。

「おう、がんばれよ」
「大輝くんもね」

 どこへも行けずに俺達は元来た道を戻る。電車は遅れることなくやって来て、レールの上を逸れることなくひたすら走る。そしていつもの日常に帰って行くのだ。
 この制服とさよならする日も近付いて、いつの間にか卒業式が始まって、あっという間に三月さえ終わってしまう。そうして、のいない春が来る。それもいつしか慣れてしまうのだろう。こんな風に軽口を交わしたり悪態をつくことが日常から思い出に変わって行く。
 今はただ、残り僅かな日常を噛み締めるしかできない。いつか笑ってそんなこともあったと話せることを願いながら。





(2014/02/03)