呼吸困難



 計算も策略も何もない。ほんの高校生の放課後には、罠など何もしかけようがない。何かあるとすれば、それは運命。笑ってしまうが、そういうものに夢を見てしまうのだ、私という人間は。

「先に行って良いのに。部活忙しいんでしょ?」
「ちょっとくらい大丈夫っスよ。さん一人でさせる訳にはいかないっしょ」

 黄瀬くんと同じ日に日直になるなんて、何分の、何十分の一の確率だろう。しかも今日は教室は静かで誰もいない。黄瀬くんのファンだと言う女の子たちの気配もない。もう二度と来ないかも知れない夢のような時間を私は過ごしているのだ。…日直の仕事なんて大したものはないし、あとはこの日誌さえ書けば終わりだと言うのに、黄瀬くんは私が書き終わるのを待ってくれているらしい。バスケ部の練習が厳しいのは私も知っている話で、だから、部活に行ってねという意味で日誌は引き受けたはずだったのだけれど、どうやらそれは彼に伝わってないらしい。

「他の仕事いっぱいしてもらったのに」
「黒板消しのことっスか?」
「うん…」
「いつも背伸びして震えながら消してるの、危なっかしいと思ってたんスよ」

 なんでそんな所を目撃されているんだ、私は。…まさかの言葉に恥ずかしくなり、私は黙って日直日誌の続きを書く。手元に視線を感じて、不自然に手が震えた。ただでさえ机一つ分の距離しかないと言うのに、こんな至近距離で見られていたらどうすればいいか分からなくなってしまう。落ち着くことが無理な状況で、落ち着けと言い聞かせて見た所で無駄なことは分かっている。目の前に黄瀬くんがいる限り、私の心臓は喧しいままなのだ。

「いつも見てたのに」
「そ、そう」
「どきどきしないっスか?」
「別に…!」

 思わせぶりな言葉を続けて私を揺さぶる黄瀬くん。どきどきしない訳がないじゃない、私だっていつも黄瀬くんを見ていたんだから。もしかしたら、ちょっと手元が狂ったら黄瀬くんの手とぶつかるかも知れないとか、そんな馬鹿なことばかり考えてどきどきするくらい、私は冷静さを失っている。もう、息をするのも苦しい。

 その瞬間、シャーペンを握っていた右手を、突然黄瀬くんが握った。反射で振り払おうとするも、そんな簡単に振り払えるほどの力で握られた訳ではない。握られた手首から全身に熱が回って行く。みるみる顔まで熱を持つと、そんな私を見て黄瀬くんは笑った。

「これでも、どきどきしない?」
「………」
「しない?」
「……する」

 私はいつか黄瀬くんに息を止められてしまうかも知れない。呼吸一つに緊張するほどの距離で、黄瀬くんは私を見つめる。そのふたつの瞳には、戸惑って情けない顔をした私が映っていた。










(2012/08/12 ハッピーバースデーしらさん!!)