仕事が楽しかった訳ではないが、打ちこんでいる内にいつの間にか私は25を超えていた。仕事を言い訳にするつもりはないが、いつの間にか付き合っていた彼とは別れていた。やりたかった仕事、所属したかった部署への配属、それらは彼の存在よりも仕事のやりがいの方を優先する何よりの要因となっていた。それを後悔している訳ではない。結婚を断ったことも間違ってはいないと今でも思っている。ただそれも、世間から見れば「間違っている」と指をさされてしまうのだ、残念な事に。

「…で、数年ぶりに再会したクラスメートへの愚痴がそれかよ」
「いや、まあ、うん…なんかごめん」
「別に」

 渡米しているはずの青峰が初めて同窓会に参加したのは、オフシーズンだったかららしい。一時帰国中の彼は、家でゆっくりでもすればいいものの、わざわざ同窓会なんて落ち着かない場に現れた。案の定、青峰が会場に到着した途端、彼の周りには人だかりができてしまった。それでも、高身長の彼は埋もれることなく、頭いくつ分かその山から飛び出る。つまりそれは、青峰がどれだけ人に囲まれても周囲は見渡せると言う訳で、高校生の時と同じように会場の隅で友人と烏龍茶を飲んでいた私を目ざとく見つけたのだった。
 私と青峰がどういう関係だったかといえば、ぼんやりしている。友人と言うには何か違和感はあるものの、ただの同窓生というにはどこかよそよそしい。有体に言えば、私たちはあの思春期の頃、一度だけ関係を持ったことがあったのだ。何が、とは聞かないで欲しい。
 子どもだったのか、大人ぶりたかったのか、興味本位だったけれど、私にとっては間違いなく初めてで、どうしても忘れられない出来事となったことに変わりはない。それでも、そのたった一度を経験して以降も私と青峰が変わらずさっぱりとしたクラスメートのかんけいを続けられたのは、青峰のあのさっぱりとした性格のお陰かもしれない。
 そして今、卒業してから一度も連絡をとっていなかったというのに、二次会を終えてなぜか二人で飲みに来ていると言う訳だ。帰る方向が同じなのが私たちだけだったという、どこぞのベタな恋愛ドラマのような展開だが、更にベタを行くように二人でふらりと適当なお店に入ったのだった。

「どうでもよかった訳じゃないんだけどなあ…」
「そもそも、あれもこれも抱えられるほど器用な人間じゃねえだろ」
「まあ、そうなんだけど」
「そういう奴はあれだ、あれもこれも抱えてくれるような奴を探すしかねえんだよ」
「簡単に言うね…」

 でも、青峰の言うことは当たっていた。私のことも、私の仕事し対する気持ちも受け止めてくれるような、私とは真逆の器用な人じゃなきゃ、私は付き合えないのかも知れない。
 男女の交際というのは、なんで女の子同士の友達付き合いのように上手く行かないのだろう。
 からん、とグラスの中で氷が傾いた。私も青峰もお酒なんて一滴も飲まない癖に居酒屋なんて入ったのは、この時間になるとそういうお店しか開いていなかったからだ。さすがに同窓会である程度美味しいものを食べた後に、ラーメン屋なんて入る気にはなれない。お陰でさっきから私も青峰も並んで注文しているのはソフトドリンクかノンアルコールばかりだ。しかし、青峰がお酒を飲めないのは意外だった。飲めない、というより飲まないそうなのだが、一体どちらが本当なのやら。バスケに対してはバカがつくほどに真面目な青峰のことだから、体のことを思って禁酒をしているのかも知れない。

「ま、言うほど簡単じゃねえってことも分かってる」
「青峰ってそんな良い奴だったっけ…」
の減らず口は相変わらずだな」

 眉根を寄せて私の方を見た。高校時代から見た目だけは大人びていたけれど、それに中身も伴って来たのか、発言にいちいち説得力がある。当時の面影を残しながらも、やはり年相応の顔つきになった青峰は懐かしいやら、どこか寂しいやら。人の成長や進歩はこんなにも感じるのに、私は多分、昔からずっと変わらない。同じように馬鹿だったあの頃とは違うのだな、とセンチメンタルに浸りながら、私はまた烏龍茶を一口飲んだ。
 青峰がこんなにも変わったのはアメリカに行ったからだろうか。高校までずっと実家暮らしだった彼が、単身アメリカに渡って、いろんな波に揉まれて???私もいっそ一人で外国に赴任してみれば、少しは変わるのだろうか。
 隣に座っている青峰が、今度はジンジャエールを注文した。私のグラスの中身は、まだ半分ほど残っている。三杯目の烏龍茶には飽きてしまい、そろそろ私も別の味が欲しい。三杯目というと随分話しこんでいるように思えるが、時計をみると思ったよりも時間は経っておらず、ただ私の飲むペースが速かっただけなのだ。

「例えばさ」
「おう」
「守りたいものがあれば強くなるって言うじゃん」
「またベタな…」
「そういう人とだったら上手く行くのかな」
「俺とか」
「あはは!なに、そんな相手でもいんのあんた!」

 大真面目に返して来た青峰を笑い飛ばすと、今日一番のむっとした顔を見せた。お酒でも入ってる訳じゃないのに、笑いが止まらない。居酒屋のこの喧噪は、それだけでアルコールの一滴も入っていない人間を酔わせる力があるのかも知れない。とうとう涙まで出て来ると、青峰は面倒臭そうに溜め息をついて私の頭をがしがしと乱暴にかき混ぜた。
  「は強いから一人でも生きていける」と言うのが、あの彼からの別れの言葉だった。本当は私は強くなんてなくて、彼がいてくれたからこそ仕事に打ち込めた部分もあった。今思えばそれはただの甘えなのかも知れないが、だからこそ私は強くあろうとしたのだ。好きなように仕事をしている分、弱い所なんて見せてはいけないと。それが裏目に出るだなんて思いもしなかった。ずっと変わらずそこにあるなんて確約できないのに、それを馬鹿みたいに信じて、気付けばなくなってしまっていた。
 それすら誰かに吐き出すこともできなくて、彼に別れを告げられたことさえ笑い話にして、泣かないように耐えて来た。それがなんで、こんな時に限って決壊するのだろうか。よりによって数年ぶりに会った青峰の前で。

、強くなりてぇの」
「弱いままでいたい人間なんていないでしょ」
「弱い自分大好きな女とかいるだろ」
「…そんな女に引っ掛かったの」
「俺じゃねーよ!」

 分かってる、青峰はそこまで馬鹿なやつじゃない。ただ、ここで茶化さないと私は余計泣いてしまうような気がした。泣くために会ってる訳じゃないのに。高校時代だってこんな情けない所を青峰に見せたことはなかった。初めてを経験したあの日だって、泣いたりなんてしなかったのだ。

「そういや、英語できたよな」
「そりゃ、仕事で使うし…」
「こっち来るか?」
「はァ?」

 それは唐突だった。今日一番の冗談だと思った。お陰で私はほぼ空のグラスを机の上に盛大にぶちまけたし、掠れていたはずの声も裏返る。真に受けていいものではないと分かっているのに、青峰の顔を見るとそれは真剣そのもので、疑いようのない本気だった。
 なぜいきなり私の渡米に話が飛ぶのか。いや、つい先ほど私も外国にでも行って見れば、とは思ったが、私の心の内を読んだかのような発案に、顔が引き攣った。
また冗談、なんて軽く返せるような雰囲気ではなくて、私たちの間にだけ沈黙が住んでいた。見えないガラスで区切られたかのように、喧噪が遠のいて行く。
 そりゃあ、これだけ社会人をしていれば、どこか遠くへ行ってしまいたいと思ったことだって、一度や二度ではない。けれどその度に踏ん張って、逃げ出さずにここまでやって来たのだ。それを、ここで簡単に揺るがそうとする青峰に、私は返す言葉を失くしてしまった。

「ごめん、ちょっと、言ってる意味がよく分からない」
「分かれよ」
「え、なに、それは青峰が私にアメリカに行って欲しいの?」
「お前そこまで馬鹿な奴だったか?」
「青峰よりはましだったはず」
「てめ……じゃあ分かるだろうが」

 今度は私の頭をがしりと掴むと、無理矢理青峰の方に向けさせられる。
 普段の冷静さがあるなら理解できたのだろうと思う。けれどこういう場所で、こういう状況で、そんなことを言われてしまえば私の判断力も理解力も鈍ると言うもので、青峰は随分と狡いやつだった。
 私の背中を押すための一言なのだろうが、それにしてはやけに重い。青峰の発する言葉の一つ一つも、私たちの間にあるこの空気も、話題も、何もかもが重かった。はいそうですね、なんて簡単に答えを出せるはずのない提案なのに、今すぐにでも返事をしろと言われているようだ。いや、実際言われているのだろう。きっとここで私の返事を得なければ、流されてしまうことを青峰は知っている。「そんな話もしたね」と、明日の朝には言っているに違いないのだ。それより先に言質をとる気でいるのだろう。そこには若干の焦りが見え隠れする。

「口説き文句に聞こえるんだけど」
「それ以外何があるってんだよ」
「え、なにそれ、なんで」
「お前、俺が何でもないやつと一度でも寝ると思ってんのか?」
「いやだって、待って、あの時私たち高校生…えっ?ちょっと待って、まさか」
「大人でもねえのに、ンな器用なことできるかよ」

 だって、青峰に抱かれた後も私たちはいたって普通だった。何事もなかったかのように平然とクラスメートを続けた。まさか教室の、いや学校の誰も私と青峰がたった一度でも関係を持ったなど、察するはずもなかったのだ。確かな言葉だって何もなくて、だから高校生の好奇心と興味によって、起こるべくして起こった出来事だったのではなかったのか。“ただのクラスメート”は、青峰が巧妙に演じていただけなのか。だって、ほんの少しだって私に気がある素振りも見せなかったではないか。だから、本当は僅かに期待した私は、それを綺麗に捨て去ったと言うのに。それももう、何年も前の話だ。卒業前なんてぎりぎりじゃない、忘れもしない、高校生活もどまんなか、高校二年生の頃じゃなかったか。じゃあ、あれからずっと何年も、青峰は。

「嘘でしょ…」
「今とここにいるのも、下心がなけりゃ有り得ねえだろ」
「え、ええぇ…下心あったの…」
「17の時からずっと気にしてるやつ相手にどう純粋な心を保てっていうんだよ」
「そもそも青峰に純粋な心は」
「話逸らすんじゃねーよ」
「…今逸らしたのは青峰だからね」

 うるせぇ、と言いながら、ようやく私の頭を掴んでいた手を離す。私の口からは「あはは…」なんていう乾いた笑いしか漏れて来なかった。カラカラになった口の中を潤すべく、グラスに手を伸ばしたものの、それはさっき私が倒してしまったせいで空になってしまっていた。行く宛を失った両手は、空のグラスを弄ぶ。その間もひたすら隣から視線を注がれる。返事を催促するような強いプレッシャーに、つい顔は下を向く。
 さっき言ったばかりだ、私は器用ではないと。それは青峰もよく知っているはず。もし、ここで私が頷いて共に渡米したとして、私は全米で活躍する“青峰選手”の精神的支柱にはなり得ない。

はそこにいりゃいいんだよ」
「へ…」
がいると思えば、俺だってバスケに集中できる」
「いや、だからね」
「お前だってあっちで仕事に打ち込めばいい。そんで帰ってきて俺におかえりって言ってくれりゃそれでいいんだよ」
「なにそれ…」

 えらく一方的だが、これは間違いなく色んな順序をすっ飛ばしたプロポーズだ。青峰らしいと言えばらしいが、私は一言も青峰を好きだとは言っていない。そこにプロポーズは成り立つのだろうか。けれど、そうでなければなんだと言うのだ。口説き文句というには余りにも重い。それよりももっと先、ずっと未来を見据えた青峰の言葉に、私の頭の中は更に混乱する。今すぐ私の頭の中をデフラグしたい気分になった。いろんな情報が錯綜し、私を動揺させる。
 それでも青峰は私から少しも目を逸らさなかった。待って、なんて言えない雰囲気に、生唾を呑み込む。この次に私が口を開く時には、ちゃんと返事をしなければいけないような気がして、言葉を吐き出すのが躊躇われた。それでもいつかは何かを言わなければならない。何度か唇を開きかけて、それでも大事なことは返事できない。

「ふ…雰囲気も何もないじゃない…」
「もっとロマンチックな方がお好みか?」
「そういう意味じゃなくて」
「場所や雰囲気なんて関係ねえんだよ。ここが居酒屋でも、夜景の綺麗なホテルでも、観覧車のてっぺんでも、言うことは同じだ」

 逃げるために言ったのに、それも全て裏目に出る。段々追い詰められている気がした。いや、じわじわと自分の首を絞められているような。逃げ腰になる私の手首を捉えると、青峰はとうとう念願の獲物でも捕まえたかのような目をした。

が好きだ」

 くらくらする。それは店内に充満するアルコールのにおいのせいでも、渦を巻く煙のにおいのせいでも、何でもない。目の前の人物ただ一人が、私の眩暈を引き起こさせる原因なのだ。
 もう子どもじゃない私は分かる。決して生半可な気持ちで言われた訳ではないと。これを言うためだけの一時帰国ではなかったにしても、遅かれ早かれ彼に言われる言葉だったのだと。そしてカウントダウンは始まる。ここから先に進むのではなく、あの、高校生の頃へ戻って行くための。引き延ばせば引き延ばすほど、あの時の気持ちが引き戻されて来る。何でもないことに期待をして、何でもないことに望みを持ってた頃。だから簡単に切り捨てられた。でも、いくらあの頃と気持ちがリンクしても、もう今の私が簡単に青峰の気持ちを切り捨てられるはずがなかったのだ。
 青峰はただ好意を伝えただけではない。私に人生の選択を迫りに来たのだ。

「私は…」

 今でも鮮明に思い出せる。ふとした時にフラッシュバックする。初めてを経験したあの日、青峰がどんな目で私を見ていたか。今まさに目の前にいる今の青峰も、そうだ、あの時と同じ顔をしていた。












(2015/07/15 ふたりのロマンチックへ提出)