てめぇふざけんじゃねえよ。泣きじゃくる私にそんな乱暴な言葉をかけたのは大輝だった。ある日突然声を奪われた私は、大輝に別れを告げて消えてしまおうと思っていた。けれど、何日も連絡のつかない私を不審に思い、引き籠っていたアパートにやって来た大輝は、まず私を怒鳴り散らしたのだ。
 会社も休み、家族や友人からの連絡にも応答せず、誰が来ても玄関を開けることもしない。唯一こうして入って来られたのは、合鍵を持っている大輝だけだった。
 誰とも会いたくなかったし、誰にも見られたくなかった。声が出ない、その事実は誰かと会えば嫌でも痛感する。一人でいれば声が出なくても話す必要はない。だから、もう一週間ほど私はここに籠ったままでいた。
 さっきから大輝は私をずっと叱り続けているけれど、何も頭に入って来ない。反論しようにも声は出ない。痺れを切らした大輝は、ひたすら泣き続けるだけの私の肩を強く掴んだ。痛い、と唇だけで言ってみても口からは吐息が漏れるだけ。けれど、たったその一言だけで、大輝は私の声が出ないことを悟った。

、お前……」

 それきり、大輝は怒鳴ることをやめた。部屋には私がしゃくりあげる音だけが残る。平日の昼間では、部屋の外からの音も殆どない。しんと静まり返り、大輝もまた、私にかける言葉を探しているようだった。涙の止まらない私を、目を見開いたまま見下ろす大輝。
 声が出なくなってから一週間、とても寂しかった。誰にも相談できず、誰にどう説明すれば良いのか分からず、一人で悩み続けていた。こんな私を見たら大輝はどう思うだろう、別れを告げられたらどうしようと、そんな恐怖ばかりが頭の中を占めていた。大輝がそんな人間じゃないと言うことも忘れて。

「…いつから…」

 未だ私の肩を掴む大輝の腕を掴んで、小さく頭を横に振った。答えたくても答えられないのだと。昨日か、一昨日か、一週間か、訊ねて来る大輝に、もう否定することも肯定することも疲れた私は、大輝にしがみついた。
 もう何も聞かないで。もう何も言わないで。そう願いながら、泣くだけで時間が過ぎて行く。大輝が困っているのも分かっていた。いつもなら私が泣いていればぎこちないながらも背中を撫でてくれる手が、今日は固まったままだ。
 原因が何かなんて分からなかった。だから対処のしようもない。最初に病院に行って言われたことは、とりあえず体を休めて通院しましょう、ということだけだった。いつ治るかも分からないし、そもそも治るかどうかも分からない。インターネットで調べればいろんな情報があるけれど、そのどれにも惑わされてしまう。どれが本当かなんて分からない。私にとっての現実は、声が出ない、ただそれだけだったのだ。
 、と掠れた声が耳に届く。名前を呼んでくれるのに、返事すらできないもどかしさ。自分の体なのに言うことを聞いてくれなくて、思うようにならなくて、苦しくて、辛くて、どうにかなってしまいそうだ。私だって大輝の名前を呼びたい、心配かけてごめんって謝りたい。なのに、なんでそんな簡単なことすらできないのだろうか。

「悪かった」

 大輝が謝ることなんて何もないのに。謝らないといけないのは私の方なのに。
 声が戻る保証はない。大輝が辛い時も、悩んでいる時も、名前を呼んで振り返らせることもできない。他愛のない会話も、好きだと伝えることも、ありがとうを言うことも、何もできない。なんで私だったの、なんで今だったの、と問うてみた所で答えなど出ず、ただ心が落ち込んで行くだけ。この世の神様は不公平らしい。私が一体何をしたと言うのだろう。
 すると、ようやく震える手で大輝が私を抱き締めてくれた。今までそんなことされたこともないのに、まるで壊れ物を扱うかのように優しく。そこから、大輝の戸惑いや動揺が伝わってくるようだった。
 久し振りに触れた誰かの体温、久し振りに聞いた誰かの声。それらに触れて、辛いのにこんなにも安心する。孤独だけが充満していたこの部屋に、一筋の光が射したようだった。大輝に拒絶されなかったことに、これ以上なく安堵した。これ以上何かを失えば、今度こそ生きて行けないような気がしいていたから。

「もう一人にはさせねえよ」

 発せられた言葉に、また涙が溢れ出す。ごめんなさい、ごめんなさい、と唇だけで繰り返しながら、私は泣いた。与えられても、返せる言葉なんて何もないかも知れないのに。二度と名前を呼べないかも知れないのに。好きの言葉も伝えられないかも知れないのに。それなのに、大輝は私を手離さないと言う。私を抱き締める腕の強さが、段々といつも通りに戻って行く。やがて、呼吸をも圧迫されるほどの力になると、大輝は私の耳元で囁いた。

「死ぬな、

 死にたくなるほど苦しかった。なぜ声を失ってまで人魚姫は人間になりたかったのかと恨めしく思うほど。それをどうして見透かされてしまったのだろう。何も言っていないのに、ただ泣いていただけなのに。
 突き放してくれた方が良かったのか、こうして繋ぎとめてくれた方が良かったのか、それは分からない。けれど大輝が苦しそうに死ぬなと言うから、私を抱き締めていてくれるから、まだ大輝の傍にいることを許されたような気がした。もう一度私は、心の中で「ごめんなさい」と呟いた。








(2015/01/18 ちいさな童話さまへ)
Thanks...HELIUM