ライブカフェというものがあるように、ライブバーというものがある。とあるライブバーの店長に気に入られた私は、しばしば…と言っても月に二回程度、そのライブバーに歌手として出演していた。バーと言ってもフロアは軽く二つに区切られており、片方は食事を楽しむようなフロア、もう片方はカウンター席もあり、お酒の好きな人が好む空間だ。ちょうどその真ん中にグランドピアノが置かれており、このライブバーへの出演者たちはお店の真ん中でその演奏を披露することになる。ジャンルは様々だが、やはり女性アーティストの方が男性客のウケが良いらしく、私は度々店長から「今日出てくれないか」と急に頼まれる事もあった。
 今日は元々出演依頼を受けていたのだが、自分の演奏も終わって他の出演者と話でもしながらのんびり聴こうとしていた。しかし、元の席に戻ろうとしたら既にそこは他の出演者さんに陣取られてしまっていた。仕方ない、ここは元々人気のバーのため、出演者以外にも客はたくさん出入りしているのだ。私は自分の鞄と譜面を片手に、仕方なくカウンターのあるフロアへと移動した。
 お酒好きの音楽仲間曰く、ここはお酒も随分充実しているらしい。ぺらりとカウンターのメニュー表を見てみたが、何が何やらさっぱり分からない。はあ、と溜め息をついて鞄から水の入ったペットボトルを取り出した。ここに座ってしまった以上、何か頼むべきなのだろうが、お酒の名前も種類もさっぱりである。それもそのはず、私はお酒が全く飲めないのだ。まるで外国語のような文字の羅列を眺めていると、突然後ろから男に声を掛けられた。

「おい、お前さっき歌ってたやつだよな」
「へ、あ、はい…」
「隣いいか」
「は……?」

 カウンターならまだ他にも席は空いている。それなら私があちらへ、と言おうとしたら。それを制するかのように「隣、空いてんだよな」と念を押すように言って来る。最早脅しに近かった。ものすごく背が高い、しかも人相悪い、かなり声も低い。恐らく同年代であろうが、こんな人に言われたら頷くしかなく、私は数回首を縦に振った。
 男の手には既にグラスが握られており、もうどこぞの席で飲んでいた所なのだろうと察する。ちらりと後ろを見れば、テーブル席の方には彼と同じくらいの年代の男性やら女性やらがお酒を片手に盛り上がっていた。
 カウンター席だけどソフトドリンクでも頼むか。メニュー表の左隅にあるソフトドリンクの欄を今度は眺める。クランベリーソーダ―――これは美味しそうだ。いや、でもアップルティーソーダもキウイソーダも捨てがたい。アップルメロンソーダ―――最早未知であるがソーダ好きの私としてはかなり気になる存在である。
 隣に来た男のことなどすっかり忘れ、私は熱心にメニュー表を眺めていた。すると、右隣から喉を鳴らして笑う声が聞こえる。当然それは、先程の男のものだ。

「何ですか…」
「子どもみてぇだな」
「し、失礼な!」
「酒一つで悩むとか子どもだろ」
「お酒で悩んでたんじゃありませんから…」

 じゃあなんだよ、あっもしかして酒飲めねぇの?―――なんでだろうか、これまでそれを聞かれた所で腹は立ったことはなかったと言うのに、この男にそう言われて初めてカチンと来た。なので、店員さんを呼んで堂々と言ってやる。

「グリーンアップルティーソーダで!」
「畏まりました」

 そして数拍置き、男はぶはっと噴き出す。そして思いっ切り笑いやがった。けれどさっきまでの威圧感はどこへやら、ここまで笑うといっそどこか可愛く見えないこともない。涙目になりながら笑う彼がようやく落ち着く頃、私の前にはアップルティーソーダが置かれる。「よく混ぜてお飲み下さい」と一言添えると、店員はまた去って行く。
 どうせお子様だと思ったのだろう、二十代も真ん中になって来るような女がお酒一つ飲めないなんて。だからよく飲み会では私は浮いた存在になる。幸い、音楽仲間での集まりではお酒をガバガバ飲む人は一人もいないため、かなり健全な飲み会となるわけだが、職場の集まりとなるとそうもいかない。上司に注がれたお酒を断ることもできず、とりあえず口をつけたふりをする。それを繰り返している内に、私のグラスはビールやらシャンパンやら日本酒やら、とにかくアルコールと言うアルコールが混ざり合ったとんでもない飲み物の入ったグラスが完成する。もちろん私は飲めやしない。
 アルコールの独特のにおいも嫌いだった。近くで嗅ぐだけでえづいてしまいそうしなる。ただ、ノンアルコールだけは飲めるため、どうしても、と言う時はそれで凌いでいた。

「酒、弱いのか?」
「飲んじゃダメな体質なんです。それに喉にも悪いですし」
「あー…商売道具だもんな、お前の喉」
「商売…いや、歌で生活してる訳じゃないですけど」
「なんだ、違うのかよ」
「プロってそんな甘いもんじゃないですよ」

 そう答えると、彼も意味ありげに「そうだよな」と意外にも同調してみせた。もう一度、後ろを振り返る。会社か何かの集まりだろうか。いや、それにしては彼はサラリーマンらしいスーツを着てはいないのだが。
 カランカラン、と氷を鳴らしながらグラスをかき混ぜる。ソーダ、グリーンアップル、ストレートティーの三層になっていた中身がやがて混ざり、また不思議な色へと変化する。私がストローに口をつけると、同じように隣の彼もグラスに口をつけた。カウンター席は独特のほのかな照明のせいでよく分からないが、彼のグラスの中身もよく分からない色をしている。そのアルコールは、一体どんな味がするのだろうか。苦いのだろうか、甘いのだろうか、美味しいのだろうか、そうでもないのだろうか。

「名前、なんだったか」
「え?」
「歌う前に自己紹介してただろ。うるさくて聞こえなかったんだよ」
、ですけど…」

 どうも会話が続かない。お互いに会話を続けようとする意思もあまり感じられない。だから途切れ途切れになり、私のグリーンアップルティーソーダは見る見る内に中身が減って行く。ちらりとこっちを見た彼は、「それ、酒だったらすげぇハイペースだぞ」なんて言う。けれどそれにもどう反応して良いのやら。お酒を飲むペース配分とやらもさっぱり分からないのだ。「そ、そう…」としか返せず、視線は一度交わったものの、またどちらからということもなくグラスに落とされる。

「青峰」
「え?」
「俺の名前」
「青峰…珍しい名前ですね」
「そうか?」

 まあそんなことより、だ。そう言って彼はコトンとグラスを置いた。どうやらお酒の種類によってもグラスの形は違うとか何とか言うらしいが、私にはそれもちんぷんかんぷん。とりあえず置かれたグラスは丸くてごつかった。置いた瞬間も、それなりの音がする。
 何やらここからが本題らしく、彼は片肘をカウンターテーブルにつくと、キィ、と椅子を回して私の方を向いた。私もゆっくりとコップをカウンターに置いて、けれど手はそのままコップを握っていた。中身のソーダはもう半分も残っていない。

「よくここで歌うのか?」
「まあ、月に二回くらいは。有難いことに声をかけて頂いているので」
「歌うの好きなんだな」
「え?」
「そういう顔してたからな。分かるんだよ、なんとなく」
「…そう、ですね」

 歌うことは好きだ。だから、仕事がハードでもやって行ける。とにかく無茶でも仕事を終わらせて汗だくになりながらライブハウスにかけ込んで出演したこともある。けれどそういう必死さを悟られはしたくなくて、職場にも音楽活動をしていることを秘密にしている。音楽のためなら多少の無茶くらいする、なんて職場には知られたくない。
 けれど多分、この人はそういうことも今、全部見透かしたのだと思う。そういや、「プロはそんなに甘いもんじゃない」と言った辺りから青峰さんの雰囲気が変わった。もしかして、言ってはいけないことを言ってしまったのだろうか。所謂、彼の中の地雷と言うやつを。
 じっと見つめられることに耐えられず、ふい、と目を逸らす。再び視線はコップの中へ。未だ不思議な色でコップの内側に気泡を作るソーダを、一口流し込んだ。言いたかった一言と一緒に呑み込むために。青峰さんは何をされているのですか、なんて訊けるような雰囲気ではない。そうしてまた沈黙が作られる。依然、青峰さんの身体は私の方へ向けられたままだ。その眼は何か、私の奥深くを探るかのような眼で、一瞬背筋を冷たい何かが駆け抜けて行く。ぞくり、と。そんな眼で見られる意味が分からなくて、私は髪が流れて顔が隠れる程俯いた。

「好きなことを仕事にするのは、なんでこんなに難しいんだろうな」
「え…?」

 思いがけない言葉に、少しだけ顔を上げる。すると、もう青峰さんは体勢を元に戻していた。相変わらず片肘をついたままだが、あの探るような鋭い眼はしていない。むしろこれは、どこか遠くを、昔を思い出しているような、そんな眼差しだ。

「出来ることなら好きな仕事をしたいだろ、フツー」
「…はい」
「ま、世の中そんな上手く出来てねぇか」
「でも……でも!」
「あ?」
「プロじゃないからできたことがあります!出会えた人がいます!だから私は、私の今を上手く行っていないとは思いたくありません!」

 ダン、とテーブルを叩き、今度は私が青峰さんの方を向いて叫んだ。前のめりになりながら、立ちそうになるほどの勢いで。しかし、すぐにはっとしてちゃんと椅子に座り直す。
ついかっとなってしまった。頭を冷やすためにも残りのグリーンアップルティーソーダを一気飲みする。ズゴゴゴゴと、最後の方はとても上品とは言えない音が鳴った。けれど、頭の中では非常に焦っていた。啖呵を切ったと思われても仕方ない。しかもこんな、最初とんでもない威圧感を出していた人に。つい、とは言えものすごい反論してしまった。何を言われるだろうか。もしかして胸倉掴まれたりとか、何かもっと怖い口調で更なる反論をされたりとか、とにかくありとあらゆる“悪い事態”を想像する。時間差で殴られたりとか、そういう暴力沙汰になってしまいかねないかも知れない、かも知れない。
 さっきの私の言葉を聞いて以降、また沈黙が続く。他の出演者は演奏を続けているし、客の話し声も途絶えることがない。ただ、私と青峰さんの間にだけ会話がない、言葉がない。全てがガラスの壁の向こうにあるかのように、ただ、静かだった。怯えていたものの、流れて来た髪の隙間から覗いた青峰さんは、怒っている様子はない。それらしき雰囲気もない。それを見て、私は少し安心した。

「次、何飲む」
「え、いや、私はもう…」
「一杯奢ってやるよ。ソーダでもノンアルコールでも…って、ノンアルコールも飲めねぇか」
「い、いえ!飲めます!でも、そうじゃなくて…」
「なんだよ」
「怒ってないんですか?私、自分勝手で生意気なことを言って…」
「んなことねぇよ」

 ほらどれにするんだ。さっきまでの重い雰囲気はどこへやら、軽くそう言って私にメニュー表を寄越す。その表情には、もうどこにも鋭さはない。脱力してしまった私は、呆けながらメニュー表を受け取る。そしてまた左端のソフトドリンクの欄に目をやった。
 多分、私が同じように言われたら腹を立てると思う。今すぐここから立ち上がって出て行くだろう。二度と顔も見たくないと吐き捨てて。けれど彼は、怒るどころか私の生意気な言葉を認め、あまつさえ一杯奢ると言った。私だったら、そんなことできるだろうか。

「早く選べよ」
「…ホワイトクランベリーソーダで」
「お前本当ソーダ好きだな」
「飲むと、すっきりしますよ」
「じゃ、俺もそれ頼むわ。想像つかねー飲みモンだけど」

 そう言って、大の大人、しかも男の口から発せられた「ホワイトクランベリーソーダ二つ」。私はつい笑ってしまいそうになったが、さすが店員さんは表情一つ変えずに「畏まりました」と言って一度カウンターから去る。その間に、青峰さんは残っていたお酒を一気に飲み干した。そして、大きな氷がグラスの中でカラン、と音を立てる。それは、私のコップの中の氷が立てる音よりも重かった。

「また聴きてぇな」
「え?」
「お前の歌。またここで歌うんだったら教えろよ」
「なん、で…」
「聴きたいから以外に理由なんて要んのか?」

 横目で私を見ながら、ふっと笑う青峰さん。
それは、史上最大級の殺し文句だ。確かに、聴きたい以上の理由なんて要らない。私は、私の歌を、声を聞いてくれる人が一人でもいるなら歌うと決めたのだ。青峰さんがその一人になってくれるのなら、歌うしかない。

「まあ、お前の歌を聞いて、そんでからまたこうやって酒でも飲めたら最高だけどよ」

 これほど美味い酒があるかよ、と続けて言った。
 これまで、色んな言葉をもらった。私の歌と声を好きだと言ってくれる人はたくさんいた。ファンだと名乗ってくれる方もいた。もらった言葉に順位なんてつけられない。そう思っていた。けれど、駄目だ。たった今、青峰さんが言ってくれた言葉の全てが、一番の言葉になって行く。そんなことを言われたら、だめだ、意識してしまう。自意識過剰と思われるかも知れないけれど、その言葉はあまりに卑怯だ。
 私たちが黙り込み見つめ合ってる所へ、タイミングよくホワイトクランベリーソーダが運ばれて来る。今度は、ホワイトソーダとクランベリーシロップが真逆のコントラストを描いている。ストローで混ぜればゆるゆると混ざり合い、やがて淡い紅になる。ほぼ同時に私たちはそれに口をつけた。そして、青峰さんは「うへ」と一言零す。

「甘ぇ」
「そうですか?普通ですけど…」
「そういや、お前の声も甘いな」
「へっ!?えっ!?」
「嫌いじゃねーよ、お前の声は」

 しかしとんでもねぇ味だな、これは。ぶつくさ文句を言いながらもホワイトクランベリーソーダをどんどん飲み進めて行く青峰さん。私は、つい先ほど言われた言葉に今日一番驚いて、左手でコップ、右手でストローを持ったまま固まってしまった。
 これほど衝撃を受ける感想をもらったことはない。いつもは笑顔で「ありがとうございます」と返せるのに、そのテンプレートの言葉が出て来ない。それ以外の言葉も出て来ない。何を言えばいいのだろう、何と返せばいいのだろう。こんなにも嬉しい言葉をたくさんもらって、私は何を言えばもらった分を返せるのだろうか。

(多分、言葉じゃない…)

 私からの何かしらの言葉を、きっと青峰さんは期待していない。それ以外の、もっと違う何かを望んでいるはずだ。言葉でも、お酒でも、何でもない、たったひとつ。

「じゃあ、精一杯歌います」

 真っ赤になりながら伝えた言葉に、「期待してんぜ、」と言ってまた彼は笑った。伸ばされた腕が、せっかくセットした前髪をくしゃりと撫でて離れて行く。
 その手も、目も、言葉も、何もかもが優しかった。





それは炭酸に溶けない


(2014/08/04 Alcoliciさまへ)
*Music...メロディ/sleepy.ab*