高校に入って半年経ってからだったと思う。私は毎日違う天井を見て朝を迎えている。毎朝隣にいる男もまた毎度違って、もうどれだけ何をやったのか覚えてすらいない。相手の男の顔と名前すら一致しない。覚えてもいない。いや、覚える気がない。
 女子高生が制服で夜遅くに繁華街を歩いていれば、声を掛けられるのは何も珍しい事じゃない。適当にふらふらとついて行って、一晩で数万円。それで私は生活をしていた。
 一人暮らしだけど両親はいる、仕送りもある、そのお金で足りない訳じゃない。学費だって親が出してくれている。けれど上手く説明できない何かが、私と家族を分裂させた。思春期によくあるやつだ。所謂私は非行少女で、学校でも一際浮いた存在だった。夜の繁華街をうろついている事だってクラスどころか学校中で噂になっている。勉強はそこそこだ。素行を問われなければ適当な大学なり専門学校なり短大なりに進学できる。
 つまり私は、無益な毎日を漫然と送っていた。誰とも知らない男に身体を開いて、けれどそこに愛の欠片もない。唯一覚えているのは、最初は断るのが面倒くさかったからだ。けれど私がどれだけ無反応でも男は何でもいいらしく、何度も声を掛けて来る男だっていた。けれどそこには優しさも温もりも何もない。
 ああきっと私は寂しいんだろうな―――そんな事には自分で気付いていた。私の求めるものが夜の繁華街に決してなくても、一人ではないという事実が欲しかったのかも知れない。
 その日の夜も、学校が終わって適当に街をふらついた後、繁華街へと足を踏み入れる。眩しいほどのネオンが輝き、それらはチカチカと私の視界を掠める。高校の制服でこんな所にいるのは私くらいのものだ。やけに露出の多い服を着たオネエサンやいかにも怪しげなオニイサンがうじゃうじゃいる。ここでは私だけが異質。だから人の目を引きやすい。今日もその内誰かが声をかけて来るだろう―――そう思いながら携帯を触っていると、後ろからぽん、と肩に手を置かれる。ほら来た。

「なに」
「お前学生だろ、なんでこんな時間にこんな所にいんだよ」
「なんでって…別に」

 訳の分からない質問に首を傾げる。なんだ、“そういう”お誘いじゃないのか。
 相手は見上げるほどに大きな人物で、肌は日焼けか元々なのか浅黒い。威圧感たっぷりに私を見下ろすものの、そういう視線にも慣れていた。180、いや、190はあるであろう身長と会話するのは些か首が疲れる。しかも面倒なやつに捕まってしまったな、まさか私服警察か、とさすがの私も面倒臭くなる。あからさまに嫌そうな顔を前面に出せば、相手も舌打ちをして眉根を寄せる。

「オラ、行くぞ」
「行くってどこへ」
「俺んち」
「は」

 まずい、本当に面倒臭い。その辺のホテルに入るとかならまだしも、連れて帰られるとかどういう事態だ。一年と少しこんな事をして来たけれど、こんなパターンは初めてだ。しかも名乗りもしない。覚える気もないが、取り敢えずどんな男も名乗りはした。それが、勝手に手を掴んでスクールバッグを物質にずんずんと歩いて行く。私よりよほどリーチの差がある彼について行くには私は自然と転びそうな速足になる。けれどそんな事もお構いなしにさっさとその男は繁華街に出た。
 そして早々、私に説教を始めたのだ。

「てめぇそれ桐皇の制服だろうが」
「知ってるのオッサン」
「誰がオッサンだ、まだ21だ」
「老けてんね」
「話逸らすんじゃねーよ不良娘が」
「自分こそ不良みたいな顔してる癖に」

 俺の母校に泥つけんじゃねえだとか、ガキはさっさと家帰って寝ろだとか、とにかく繁華街なんか来るんじゃねえとか、五月蠅いのなんの。右から左へ聞き流す。はいはい、はいはい、と適当に返事をしていたら頭にげんこつを喰らった。結構マジなやつ。涙出そう、手加減しろよ。
 色々と文句は出て来るものの、反論するのも全部が面倒くさくてとうとう口を噤んだ。すると、急に大人しくなった男は「まあ…」と何かを切り出す。

「理由もなくあんな所にいる訳ねぇか」
「…………」
「俺んち来いって言ったのは冗談だよ。早く帰れ」

 くしゃりと大きな手のひらが私の髪を撫でる。その手のひらはごつごつしていて、マメだらけだ。何かスポーツでもしているのだろうか、それならこの体格も威圧感も納得できる。

「なんなら送ってってやるからよ。家どこだ、一人暮らしか」
「正解」
「ふーん」

 興味なさげに相槌を打つ男。もうこれ以上この人物に捕まるのも面倒なので、今日は大人しく家に帰る事にした。冷蔵庫に何かあったっけ、冷凍食品あったっけ、ていうかポット最後に使ったのいつかな―――そんな私の一人暮らし事情を思い浮かべながら駅に向かって歩く。
 男はついて来た。どうやら本当に家まで送るつもりらしい。あんな事を言っておいて送り狼などにはならないだろうが、お人好しも過ぎる。最近はリーマン狩りなんていうものもあるというのに、無防備過ぎやしないか。いや、この体格相手に何かやってやろうなんて思いもしないけれど。
 道中、私たちはぽつぽつと喋った。聞けば名前は青峰大輝と言うらしい。どうやら有名人らしいが、ニュースに疎い私にはその名前に全く聞き覚えがなかった。「まじかよ…」と半ば本気で落胆する大男。滑稽だ。私は初めて噴き出しそうになった。嘲笑の方だけれど。あとは、高校時代の話を青峰大輝は延々と喋っていた。私はあんまり話す気がなくて、一方的に青峰大輝が話す。部活がどうの、授業がどうの、よくサボっただの。私と一緒じゃないか。

「お前、いつも学校終わったらあそこ行ってんのか」
「うん」
「何か他に楽しい事見つけろよ」
「ない」

 だって、ないのだ。中学まではそれなりに楽しく過ごしていたのだと思う。部活にも入っていたし、友達だっていた。それが、なんでだろう。高校に入ってから何もかもが上手く回らなくなってしまった。理由はよく分からない。気付いたら何も楽しくなくて、面白くなくて、私の周りからは人が消えていた。家族でさえ。だから高校の途中から一人暮らしを始めたのだ。その事に両親は反対なんてしなかった。どうぞ出て行けと言わんばかりに、一人暮らしを提案した翌日に物件探しに連れて行かれたものだ。
 何が楽しいのだろう。少なくとも入学前は、もっと楽しいものだと思っていた。期待もしていた。部活だって入りたかったし、放課後には友達と寄り道したりして、たった三年の女子高生生活を満喫するつもりだった。一体どこで、何が。

、今から俺んち来いよ。マジで」
「…別にいいけど。明日学校ないし」

 結局はそれか。そんな言葉が頭を掠める。
 期待なんて本当はいつだってしている。優しくして欲しいとか、温かさが欲しいとか、ただ傍にいて欲しいとか、色んな欲を私は持っている。身体では埋められない、もっともっと大きな欲を。けれど結局求められるのは 身体だけで、私の中身には誰も興味を抱かない。
 それもそうか、と息をつく。私が人に興味を示さない限りは誰も私に興味を持ちやしないのだ。変に達観していると自覚ある私は、ちゃんと分かっていた。だから、この人―――青峰大輝から何かが欲しければ、私もそれ相応の何かを差し出さなければいけないと。少なくとも、この男に興味を持たなければいけないのだ。けれどどうだろう、どうすれば人に興味を持てるのだろう。こんな風に声を掛けて来た人間は初めてだけれど、それだけだ。それ以上もそれ以下もなく、“いつもとは違う変わった人”という感想しか持てない。
 逃げないようにするためか、青峰大輝は私の手首をずっと掴んだまま歩いていた。青峰大輝の家だと言うのは相当立派なマンションで、私の住むアパートとは比較できないほど。そのオートロックを解除するためにようやく手を離されてみれば、私の右手首は真っ赤になっていた。どんだけ握力あるんだよ、と心の中で毒づきながらその背中を睨んだ。
 そこから先は手を掴まれる事はなかったものの、段々と痛みが増して来る。少し摩りながら黙ってついて行くと、青峰大輝の部屋は意外とこざっぱりしていた。男の一人暮らしなんてもっと荒れてるものかと思っていたけれど、割と物は少ない。けれどローテーブルには溢れるほどの雑誌。バスケ、バスケ、バスケ、バスケ、時々グラビア。そのラインナップを見て「ああ、そうだよねこの人間も男だよね…」と当たり前の感想を抱いたのだった。

「適当に座れ」
「うん」

 言われた通り、ローテーブルの前に適当に座る。部屋を見渡してみれば、壁にはカレンダー、壁時計、それくらいのもので、あとはテレビ、パソコン、本棚、それくらいだ。本棚にはDVDがずらりと並んでおり、目を凝らしてみればどれもバスケのDVDばかりだった。まあ、“そういう”DVDはクローゼットなりなんなりに隠してあるのだろう。この雑誌の表紙を飾るグラビアアイドルは私でも知っている。ホテルのピンクチャンネルを回していた時に出て来た女だ。
 ふーん、こういうのが好みなのか。私は多くのバスケ雑誌より、グラビア雑誌を手に取りぱらぱらと捲った。ご丁寧に袋閉じは開封済みだ。どこのページを開いてもまあ肌色が多く、しかしピンクチャンネルを見た事のある私からすれば別に衝撃でもなんでもない。ふーん、へーえ、ほーお、なんて何の感動もない言葉を繰り返しながらぱらぱらとひたすらにページを捲る。すると、キッチンからやって来た青峰大輝が「女子高生がなんてモン読んでんだよ」と言いながら雑誌を取り上げる。

「いいじゃん、綺麗なお姉さん。好きなんでしょ。私も嫌いじゃないし」
「それとこれとは問題が違ぇ」
「イケナイ雑誌買ってる自覚はあるんだ…」
「バーカ、俺は成人してんだよ。成人にとっちゃイケナイ雑誌じゃねぇな」
「ま、イケナイ事山ほどして来た私には雑誌の一冊二冊何でもないけど。隠さないで置いとけばいいじゃん」
「お前本当悪びれもしねぇのな」

 私の前に置かれたのはコーヒーだった。うわ、私が飲めないやつ。けれどコーヒーが飲めない事をなぜか悟られたくなくて、「いただきます」と言ってカップに手を出した。口を付けて一口、広がる苦味は大嫌いなもの。なぜ大人はこんな苦い飲み物を好んで飲むのか分からない。
 僅かに眉根を寄せたのを目敏く気付かれたらしく、「はっ」と青峰大輝は笑った。

「言う事一丁前の癖にブラック飲めねぇのかよ」
「味覚と中身は違うし」
「同じようなもんだろ、苦みを覚えりゃ大人になる」
「それって経験談?」
「さあな」

 私は、上手い事はぐらかすことができるのが大人だと思っている。その基準からすれば、21とはいえ青峰大輝は大人らしい。面白くないと思いつつ、出されたコーヒーを更に飲む。我慢して飲む。その度、青峰大輝は肩を震わせる。私は口を尖らせる。
 この空間にいるのは、紛れもなく大人と子どもだった。青峰大輝の言葉の端々にそれを感じたし、言葉の応酬でいくら私が達観した考えを見せようと全て切り捨てられるような気がした。何を言っても呑み込まれる。青峰大輝は、私が出会った事のないタイプの大人のようだ。一応女子高生真っ盛りの女を部屋に連れ込んでおいて、何の素振りも見せない。何がしたいんだ、一体。
 そうこうしている間に風呂に入れと言われ、その間に私の制服のカッターシャツ及び下着、靴下類は全て青峰大輝に洗濯機にかけられてしまった。お風呂から出て何を履けと言うんだ、変な所で気が利かない男だ。
 けれど、さすがお風呂も立派。知らないシャワールームなのに、どこか落ち着く。体中の全てを洗い流す、この時間が私は一番好きだった。けれど、どうせ落ちない汚れは山ほどある。汗は流せても私の体の奥にある黒い汚れは一生落ちる事はない。そう思うとシャワーなんて無駄なように思えるけれど、とりあえずは目に見える汚れのリセットだ。
 ふと手首に目をやれば、やはりまだ赤い。当分消えないだろうか、この痕は。傷みは大分引いたけれど、数日経てば紫色にでもなっているだろうか。そうなった所で気にかけるような人間は周囲にはいないのだが。
 お風呂から出ると、脱衣所にはTシャツとジャージの下、そしてなぜか女性物の下着が用意されていた。洗濯機は未だ動いており、もちろんその下着は私のものではない。

(なるほど、連れ込んでる特定の女がいるって事ね…)

 小さく溜め息をつきながら、顔も知らない女の下着を身に付ける。なんだか、気持ち悪い感じがした。別に汚れてなどいないし、むしろ新品同様だ。だからかもしれない。“ああ、まだ最近だ”って。

「おい、出たなら早く替われ。ドライヤーはあっちでいいだろ」
「…やる事やってんじゃん」
「は?」
「別に」
「あ、俺が入ってる間DVDでも見とけよ」
「エロいやつ?」
「バーカ、違ぇよ」

 小突く拳にも余裕がある。子どもをからかうような、そんな手だ。
 周りに比べれば自分は大人だと思っていた。繁華街で出会った男たちと比べても、私の方が大人のような気がした。あいつらはただ欲を吐き出す事しか考えていない愚かな人種で、冷静にそれを分析できる私の方が大人だと。
 それが、青峰大輝はどうだろう。最初から私をずっと子ども扱いしている。たった数年の差の癖に、二十歳だって超えたばっかの癖に。繁華街にうろつくなやら、グラビア雑誌を読むなやら、コーヒー飲めない事を笑うやら。けれど、なぜだろう。それに温度を感じるのは。気付けば私は16の癖に誰も子どもだと思って見てくれなくて、家族からも見放されて、甘える相手もいない。
 私を初めて子ども扱いした人だ、青峰大輝は。くしゃりと髪を撫でる手のひら、痕がつくほど握られた手首、頭を小突く手。それら全てに「お前はまだ子どもなんだよ」と言われている気がしてならない。いや、実際法律上は未成年だ。けれど、そうじゃない、そうじゃないのだ。嬉しいのか悲しいのか分からない。ずっともう大人だと思い続けて来たのはただの虚勢だったのだろうか。
 考え始めれば気分は沈む一方で、取り敢えずドライヤーを拝借してまたリビングへ戻る。DVDはもう用意されていて、再生ボタンを押すのみ。それにすら興味が湧かないから、最大風量で髪を乾かす。そんな中、画面に流れて来たのはバスケの試合だった。それをぼんやりと流し見る。すると、所々に青峰大輝がちらほら映る。しかしその顔は今よりも随分幼い。ユニフォームにはうちの高校の名前が刻まれている。確か今もこのユニフォームだったっけ、と思い出しながら髪を乾かし続ける。
 何が目的で青峰大輝はこのDVDを見せたがったのだろう。自分の勇姿か、何か部活でもしろと言うメッセージか、自分の高校時代の自慢か。バスケのルールなんて、ゴールに入れたら点が入る、くらいしか知らない私にはDVDを見ていてもよく分からない。やがて髪も乾かし終えて、部屋の中にはテレビから流れる音だけが満ちた。
 ゴールを決める度に拳を握り締める青峰大輝、とんでもない早さでドリブルをしながら相手を抜く青峰大輝、試合を勝利で収めて満足げに腕で汗を拭う青峰大輝。これは数年前の青峰大輝であって、今の私の高校生活の中にはこんな青峰大輝はいない。同じ“子ども”の青峰大輝はいないのだ。それがなぜか、ちくりと胸を刺す。

「お、ちゃんと見てんじゃねーか」
「見ろって言った」
「まあな」
「これ、高校何年生」
「三年」
「ふうん…最後の年だね」
「おう」

 目を細めて画面を見つめる青峰大輝。その横顔を私は眺めた。ぽたりと、短い髪から水滴が落ちる。

「だめだよ、短くてもちゃんと拭かなきゃ」
「んな弱い体してねーよ」
「そういう問題じゃない」

 青峰大輝からタオルを奪い、膝立ちになってわしわしと髪を拭いてやる。お前意外と力強いのな、そんな声がタオルの下から聞こえた。当然、容赦なく全力でやっているからだ。色んな仕返しを込めて。
 この人が大人だと言うのなら、私がこのDVDを見て何を思ったかとか、私が今どんな顔をしているかとか、全部見透かせるだろうか。意外と空気が読めて物事を察する事のできる男だ、もう既に私の胸中を掌握しているかも知れない。そう思うとどこか怖いような、苦しいような、けれど淡く期待をしてしまう。この人なら、私の心の虚を埋めてくれるのだろうか、と。
 そこで頭をよぎる、誰のものか分からない女物の下着。ああ、無駄だ。ちゃんと“大人”の相手が青峰大輝にはいる。私みたいに大人の真似事をしている子どもじゃなくて、青峰大輝に釣り合う大人のオンナが。

「おい、なに泣いてんだ」
「泣いてないけど」
「泣いてんだろ」

 タオルをどけると、下から伸びて来た手に顔を捕えられる。青峰大輝の目は、今日見たどの表情よりも真剣で、その視線だけで殺されそうになる。

「泣けよ」
「なんで泣かなきゃいけないの。泣かないし」
「じゃあ泣きたそうなツラすんじゃねーよ」

 未だ頬から手は離れない。
 泣きたい訳じゃない。けれど何か、どこか辛い。ぎゅうっと心臓を掴まれたような感覚。こんな感覚なんて私は知らない。けれど確かに温度を感じる。青峰大輝の表面の温度じゃない、もっと奥底からの温度を。じっと見つめられて、私は動けなくなる。表情の一つも、瞬きさえもできなくなる。その内、呼吸の仕方すら忘れて喉がひゅうっと鳴った。
 どうして見抜いて行くの。そんな言葉が、口をついて出そうになった。泣きたくないなんて所詮は強がりだ。私は私の事を誰よりも分かっている。誰も私を理解しない代わりに、私が一番私を理解してあげている。本当は寂しい事も、虚しい事も、苦しい事も、辛い事も、寒い事も、泣きたい事も。

「なあ、俺が愛してやろうか」

 何より、誰かに愛されたい事を。
 たった一つの言葉。それはこの一晩だけの言葉かも知れない。明日の朝になったら消えてしまう魔法なのかも知れない。口先だけの、私に同情しただけの言葉なのかも知れない。ああでもなんでだろう、こんなにも信じたくなるのは。青峰大輝の言葉に頷きたくなるのは、「愛して下さい」と言いたくなるのは、なんでだろう。
 唇が震える。また喉がひくりと引き攣る。愛してやろうか、その言葉に返す言葉を一生懸命頭の中で探す。からかっているのだろうか、次の瞬間、さっきまで散々言って来たように「ばーか」なんて言うのだろうか。どうか、言わないで欲しい。こんなにも温度を感じたのは初めてだから、全てが私のために発せられた言葉だったのは初めてだったから、嘘だなんて言わないで欲しい。これを嘘だと明日の朝言われたら、もう一生立ち直れない気さえする。今日、たった数時間前に出会ったばかりの人なのに。どうせ他の男と同じように一晩寝ればさよならなのかも知れないのに。
 こんなに期待をしてしまったのも初めてで、私はもうどうすればいいのか分からない。

「ちなみに俺が聞きたいのは“はい”だけだ」
「な…にそれ……」
「拒否の言葉は要らねぇ」

 思ってしまって良いのだろうか、これまでの男たちとは絶対違うって。晒しても良いのだろうか、こんな汚い体をこの人に。色んな躊躇いが頭の中をぐるぐると渦巻いては消える。、そう返事を催促する声。
 そんな声で名前を呼ばれてしまえば、もう元には戻れない。きっとこの人の言うとおり、この人に愛されてしまえば、繁華街をふらつくなんて事できなくなってしまう。青峰大輝、この人以外要らなくなってしまう。
 それでもいいと、この男は言うのだろうか。

「もう、あんな生活嫌だ…」
「…ああ」

 心の底に隠していた本音を吐き出せば、一緒にぼろぼろと涙が零れ出す。蛇口を全開にしたかのように、それは止まらない。湿ったタオルで乱暴に私の涙を拭う青峰大輝。けれどそこには間違いなく優しさがある。ようやく言ったか、とでも言いたげに。
 手を伸ばせば、抱き締めてくれる。泣けば、涙を拭いてくれる。愛して欲しいと言えば、愛してやると言ってくれる。私の欲しいものが全てここにある。この人の中にある。
 それから、私はその夜青峰大輝と寝た。本当に、ただ寝ただけだ。私をぎゅっと抱き締めて、逃げないように離さないでいてくれた。ずっと欲しかった温度、ずっと求めていた場所。縋るように、私も青峰大輝にくっついて寝た。







 次の朝になれば、そこはまた見慣れない天井で、私の隣には昨日あった温もりは消えている。一抹の寂しさを覚えながら起き上がれば、昨日とは違い整頓されたローテーブルの上に一枚の紙切れ。へ、とだけしか書いてない。けれどその適当に破いたメモ紙には附属物があった。

「これ…鍵じゃない…」

 きっと、間違いなくこの部屋の合鍵。ぐしゃりと、それを握り締める。
 嘘じゃなかった。昨日の夜、青峰大輝がくれた言葉は嘘じゃなかった。愛してやる、と言った言葉を信じたのは間違いじゃなかった。
 もっと知りたい。もっと青峰大輝を知りたい。私の心を見透かして行った青峰大輝の事を、私ももっと知って行きたい。何を考えているのだろう、どうして私のことが分かったのだろう、どうして昨日声を掛けて来たのだろう。全てが知りたくなる。もっと、もっとと欲が出て来る。

「青峰大輝…」

 言葉にすれば、胸が痛くなった。見渡してもこの部屋の主は今はいない。もしかしてこれが恋しいと言う気持ちなのだろうか。だとしたら、とんでもないものを青峰大輝は残して行ってしまった。せめて顔くらい見せて出て行けよ、と頭の中で暴言を吐く。そうじゃないと、まだ信じられない。この鍵を手にしているのは私なのに、信じられなくなってしまう。上げて、落とされて、私を子ども扱いするならこんなにも振り回さないで欲しい。苦しい、また苦しい。
 だから、きっとまたここに私は来るのだろう。この鍵を持って、このドアを開けに。青峰大輝を知るために。その時にはもう、繁華街をうろつく寂しい私はいないはずだ。まだ少し赤みの残る手首にそっと触れながら、瞼をそっと閉じた。





残り香の別れ道





(2014/06/01 Good-bye.さまへ!)