ちゃんってもうすぐ誕生日だったよね、という声が近くの席から聞こえた。思わず、突っ伏していた顔をそっと上げる。俺より少し前方の席では、が仲の良い友人と楽しそうに会話している。普段からの声はなぜかよく耳に入って来るが、“誕生日”と言うワードが引っ掛かり、つい顔を上げてしまった。そうそう、と返事をしながらは机の上のチョコレートに手を伸ばしている。よくその友人と分けて食べているが、よく飽きないものだと思う。あんな、甘ったるいもの。

「何か欲しいものある?食べたい物とか…」
「そうだなあ…」

 が何かを言い掛けた途端、タイミング悪くチャイムが鳴る。友人は自分の席に戻って行き、はひらひらと手を振っていた。不意にはこちらを振り返る。ばちりと眼が合うと、俺にもやわらかく微笑んで見せた。それに笑って返す事もできず、俺はつい顔を逸らしてしまった。これもそう、いつもの事だった。きっともう一度の方を見ればくすくすと小さく笑っている事だろう。どう形容すれば良いのか、今日授業でやった現国の教科書の言葉を借りるなら、“鈴を転がすような声”でだ。
 例えばクラスでアンケートを取るなら、は男女問わず可愛い女子の票の殆どを得るような人間だ。気さく、優しい、けれど控え目。それら全てに厭味はなく、鼻にかける様子もない。「今日の髪型可愛いね」と言われれば謙遜せず「ありがとう、最近凝ってるの」と返すような所もポイントが高い。成績はまあまあ普通だそうだが、俺では到底取れないような点数な訳で、専門バカとでもいうのか、音楽と国語だけはやたらテストの点数は良い。
 ―――と、そういう情報は全て自分で得たものではない。噂だとか、誰かが話をしているのを聞いただとか、そういうものばかりだ。言うほどの事を知っている訳でもなく、誕生日が近いと言う事もさっきの会話で初めて知ったばかりだ。俺の知っている情報と言えば、電話番号とメールアドレス、電車通学していること、部活は吹奏楽部だと言う事くらいだ。トロンボーンと言う楽器をしていると聞いたが、それがどういう楽器は俺は知らない。「リズム感とピッチの正確さは部内一」と評されていると良は言っているが、まるで外国語のように言っている事が理解できない。ピッチってなんだって話だ。
 うちの吹奏楽部のレベルと言えばまあそこそこ上の方だそうで、金賞は取るけど優勝はできない、と言っていた気がする。そう、ダメ金というやつらしい。
 また、男子数人が集まれば、の事が話題に上る事もまあない事はなく、『青峰ってに興味ねぇの?』そんな事をクラスメートに言われたのはごく最近だ。その言葉に他意はなく、クラスのおよその男子がこぞって可愛いと言う女子生徒を何とも思わないのか、というだけの話だ。別に、俺とが付き合っているだなんて事実がばれた訳ではない。だって、誰が想像できよう。片やクラスで人気の女子生徒、片や不良かとまで言われる不真面目な男子生徒。真逆の立ち位置にいる俺たちに接点がある事すら、誰も夢にも見ないだろう。
 簡単な話だ。偶然、本当に偶然入学式の初日に教室を出るのが最後になった時、俺がを引き留めた。今思い出しても格好悪い告白だったと思う。まだ互いの名前も把握していないのに、「また明日ね」と言うあの細い腕を掴んで、振り返ったにたった一言。

『付き合ってくれ』

 自覚のある悪い目付きの相手に威圧感たっぷりに言われたその一言を、はどう思っただろう。けれど、怖がる様子も怯える様子もなく、クリアなソプラノの声で返事をした。

『はい』

 その返事に、俺の方が驚いていると、はくすくすと笑った。目を細めて、それはもう可愛らしい表情だった。こんなにも可愛い人間を俺は見た事がないと思った。いや、身近な異性を可愛いと思った事自体初めてだったように思う。
 クラス全体が打ち解けるようになると、の可愛さは際立って来た。の笑った顔には心を波立たせる何かがあるようで、いつも平常心で居られなくなる。笑い掛けられた他の男子生徒も「今日もスゲー可愛い」などと言っている。それは、正直物凄く面白くない。いっそ俺以外の男の前で笑わないでくれと言いたくなる。が、それ以前に普通の会話すらとは成り立たず、お陰でこの状態を“付き合っている”と言えるのかどうか不安になる。だって積極的な方ではないし、クラスで俺に話しかけて来る事はない。メールはすれど二、三行の簡素なもので、電話だってした事がない。
 一カ月、一カ月だ。ゴールデンウィークも明けたが進展がここまでない。その連休中、情けない事に出掛ける誘いの一つもできなかった。けれどそれに対しも不満も何も言って来ない。久し振りに学校の昇降口で会えば、「連休はゆっくりできた?」といつもの笑顔で聞いて来たのだ。
 これでは最早、ただのクラスメートである。







 結局昨日も何もできないまま、同じように昼休みが来た。携帯で適当にゲームをしながら時間を潰していると、席を外している隣の奴の席に誰かが座って来た。横目でそれを確認すると、ちょこんとが座っていた。けれど声をかけるでもなく、ただじっと俺を見つめている。大分視線を感じながらゲームを続けていたが、やがて居た堪れなくなってぶつりと電源ごと落とした。

「ふふっ」
「なんだよ」
「こっち向いてくれたと思って」
「そりゃ向くだろ」
「いつも何か言いたそうにしてるのに、来てくれないから来ちゃった」

 来ちゃった。来ちゃった、と。どうでもいい奴からそんな言葉が飛び出したら張り倒したくなっている所だ。だがなんだ、今の言葉、今の破壊力。にこりと笑いながら「来ちゃった」なんて言われて、俺が平気でいられるとでも思っているのか、こいつは。はどれだけ影響力を持っている人間か全く分かっていない。その一挙一動に一喜一憂する俺の心情なんて知ったこっちゃないのだ。掻き乱すだけ掻き乱して、後片付けはお任せ、だ。
 正直な話をしよう。男でもこれくらいの年になれば妄想はする。というか、思春期なら当たり前の事だと思って良い。女子の妄想もえげつないとは聞くが、男の妄想も大概だ。それが付き合ってくれと言った相手となれば、ありとあらゆる妄想をする。その白いブラウスの下を、紺色のスカートの下を想像したりもした。けれど、その度に言いようのない罪悪感に襲われて、結局それは叶わない。俺の頭の中だけとはいえ、を汚す事なんてできなかったのだ。そのネクタイに手をかける事すらできない。
 は本当に、この世で一番罪深い女だと思う。

「別に、言いたい事何かねぇよ」
「そっか」
「…お前こそ、なんかねぇのかよ」
「うーん、そうだなあ…」

 悩む素振りを見せてから、「今日部活休みなの」と言い出す。で、と返せば、「だからね」と視線を右へ左へ彷徨わせる。
 こう言う時、人の心の機微を読み取れないと言うのは一番の短所だと思った。が何を言おうとしているのか、本当に分からないのだ。いつもより少し頬を赤くして、何度か言葉を躊躇った後、意を決したように再び俺を真っ直ぐに見た。きれいに切り揃えられた前髪、澄んだ眼、桃色の唇。その全てに視線は奪われる。

「青峰くんが迷惑じゃなかったら、帰り、一緒したいなあ…って」

 その一言に呆気にとられる。我儘かな、と付け足すに内心、物凄く動揺した。本来俺の方から誘うべきだろう、俺が付き合ってくれと言ったのだから。それに、一緒に帰るくらい我儘でも何でもあるものか、願ったり叶ったりだ。むしろずっと望んでいた事でもある。それを我儘なんて、誰が思うものか。
 そう頭の中では必死な俺が色んな言葉を考えるものの、結局口をついて出て来た言葉は「暇だし構わねーよ」だった。これがもし試験だったとしたら最低の点数だろう。ゼロどころかマイナスだ。にも関わらず、嬉しそうに「ありがとう」なんて言う。くそ、可愛い。こんなを前に俺はどうすればいいのか。微笑みながらこっちをじっと見るに耐えられずガタッと大きな音を立てて立ち上がる。

「どこ行くの?」
「次サボる」
「あっじゃあ私も」
「はァ?」
「青峰くんが行くなら私も行きたい」
「いやはやめとけよ」
「なんで?一回くらい平気だよ」
「俺と違って良い子で通ってんだからよ」

 必死に説得するも、理解できないとでも言いたげに首を傾げる。その仕種すら超一等級の可愛さで、もう他の女子やらアイドルなんか目が行かない。
 俺がこんなに悩んでいる事など露知らず、ひたすら俺を見上げる。その角度は反則だ。こっちばかりがを意識しているんじゃないかと不安にすらなる。こんな気持ちになる事さえ初めてで、もうどうすればいいのか分からない。女子の扱いも、女子の考えてる事もさっぱりだ。こう言う時、俺はともかくは真面目に授業を受けさせるべきなのか一緒に悪い事してしまっていいのか。その二つが天秤にかけられている。
 ぐらぐらと揺れた後、俺はこれ以上ないほど緊張しながら「行くぞ」と声をかけた。「友達に保健室行くって言って来るね!」と元気にさっきまで一緒に弁当を食べていたやつの元へ駆けて行く。当然だが一瞬で体調不良でない事を見抜かれたようで、空気を読んだらしい友人が俺を見てにやりと笑った(あいつ、知ってやがるのか)。とはいえ、を責められるはずもなく、そもそも隠す必要のない事だ。なんとなく周知されていないし公にしていないだけで。
 きっとはいろんな奴から付き合ってくれだの何だの言われている事だろう。高嶺の花、なのだから、それこそ誰もがダメ元で。そこでどんな返事をしているのかは知らない。彼氏がいると言っているのか、ごめんなさいの一言なのか。はたまた、「好きな人がいる」とでも言ってくれているのか。だとしたら、と考えると堪らなく嬉しさが込み上げて、次に恥ずかしさでいっぱいになって片手で顔面を覆う。

「どうしたの、青峰くん。本当に体調悪い?」
「…ある意味な」
「えっ!どうしよう保健室行く!?」
「行かねーよ。屋上だ」

 焦るを置いて、とりあえず屋上を目指す。できるだけゆっくり歩いては見るが、後ろからついて来るの足音は忙しない。俺よりずっと小さいの足のリーチは短く、必死について来ているようだ。例えばここで黄瀬なんかだったら歩幅を合わせて隣を歩くなり、手を引いて歩くなりするのだろう。だが残念ながら俺だ。屋上についてからとどんな会話をするのか、どう過ごすのかを考えるだけで頭はいっぱいになる。二人きりになるなど、あの入学式以来なのだから。
 よく愛想を尽かされないと思う。俺のそっけないメールにも必ず返事はして来るし、俺から返事がなくても次の日また同じように他愛もないメールを送って来る。こう言うのを健気というのだろうか。俺にはまるでの欠点が見当たらない。
 教室のある四階から二つ上がった所に屋上はある。しかしその短い距離ではこれからとどうすればいいのか良い案が思い浮かぶはずもなく、憎らしいほど晴れ渡った空とは逆に、心の中は曇天だ。気まずい沈黙の中、フェンスの傍まで駆けて行ってそこから見える街並みに「わあ…」なんて感嘆の声を漏らす

「青峰くんはいつもここを一人占め?」
「別に、誰も来ねぇだけだよ」
「じゃあ今日は二人占めだね」
「……」
「あれ、すべっちゃった?」

 んな訳あるか。この女どこまで俺を引っ掻き回せば気が済むんだ。参る、精神的にこれは随分と参る。いや、堪らないとでも言うのか。
俺はこんなにも緊張したりどぎまぎしたりしているというのに、はまるでいつもと同じ調子だ。これって、まさかあまり意識されていないという事なのだろうか。肩を落としながら適当に寝転がると、その横にも腰を下ろす。

「いい天気だね」
「おー」
「眠くなっちゃう」
「寝ちまえば」
「そうしたら青峰くんとおしゃべりできないじゃない」
「俺と話してそんなに楽しいか?」
「だって、知らない事がたくさんあるから。青峰くんの事、もっと知りたいって思うんだけどなあ…」

 私だけ?―――そう言って、いつものやわらかな表情を消したが俺の顔を覗き込む。さらりと、の綺麗な髪が風に揺れた。すげー肌キレーだなとか、リップクリームで唇つやつやだなとか、睫毛長ぇなとか、に言われた言葉とは関係の無い、の顔の造形について色々と考えが巡る。こうしてまじまじと見ると、の顔のパーツひとつひとつも整っていると思う。何度も考えた事だが、よく俺みたいなお世辞にも愛想も人相も良いとは言えない奴の告白を受けたと思う。クラスの男子がの事で騒ぐのもよく分かる。今こうしてといられる事自体が夢か奇跡なんじゃないかと錯覚しそうにもなる。
 冷静な顔で見つめられると、こっちまですっと頭の中が途端に冷静になる。そして視線は唇に引き込まれる。いつも見つめていたやや開かれた唇は花のような色。そこに触れた時の感覚を想像して、生唾を飲み込んだ。すると、さっきまでの混乱が嘘のようにすらすらと言葉が出て来る気がした。

「…じゃあさ」
「うん」
「キスって付き合ってどんくらいでするもん?」

 これにはさすがにも驚いたようで、俺を見下ろしたままその目を大きく見開いた。落ちて来るんじゃないかと言うほど大きな目。くるんと巻かれた睫毛に縁取られた瞼を、数回ぱちぱちとする。そんなの顔に手を伸ばし、親指でそっと下唇をなぞった。途端、の顔は林檎のように真っ赤になる。これは初めて見る顔だった。いつもは余裕そうに笑みを浮かべていて、くすくすと笑い、耳に心地の良い声で「青峰くん」と呼んで来る。そのが、俺の前で初めて動揺を見せた。いつもと形勢逆転だ。

「キス…は…」
「…………」
「今、したいです」

 その一言が決め手だった。起き上がっての後頭部に手を挿し込むと、押しつけるようにキスをした。その瞬間のは一層目を大きく見開いていて、けれどそっと瞼を閉じる。
 飢えていたのだと思う。話したくても話せなくて、触れたくれも触れられなくて、の身体を想像する事すらできなかった。それがたった一つのキスでこんなにも満たされる。けれど足りない、まだ足りないと、が酸欠になるまでキスを繰り返した。気付けばはぐったりしていて、俺の胸に凭れかかっていた。はあはあと浅い息を繰り返し、制服のシャツの胸元をきゅっと握っている。髪を撫でてやればうっとりと目を閉じ、全てを委ねて来る。

「なあ」
「な、に…?」
「誕生日、いつ」
「へ…」
「欲しいモンやるよ、

 すると、はっとしたように顔を上げる。今度は見上げられたその顔は、またもや赤い。にこんな顔をさせられるのは俺だけなのだと、この時初めて思った。ちゃんと、も同じように思ってくれていたのだと。案外、も余裕がないのかも知れない。俺もまだまだぎこちないが、いつもでもこれでは前には進めない。の華奢な身体を抱き寄せながら、「」ともう一度の名前を口にする。まだその名前を呼ぶだけでこんなにも緊張する。人の名前を呼ぶのにこんなにも覚悟が要る日が来るなんて、思いもしなかった。
 腕の中のは「えっと…」などともごもごしている。やがて、そっと両手で俺を押し返すと、「青峰くん」と言う。訳が分からず当然「は」と返す俺。

「だから、青峰くんを下さい」

 どくんどくんと、体中に血が巡る。それは恐らくも同じで、白くて綺麗なの肌は耳まで赤い。言った本人がそんな顔になるな、そう言いたいのを我慢して、返事の代わりに俺はまたの唇に噛みついた。そしてまたトドメを刺される。


「私、青峰くんが思ってるほど良い子じゃないよ」







(2014/05/27 「ぼくのダイヤモンド」へ提出)
Design...のり太さん