Nobody knows the way


 歩く道が違うことは出会った時から分かって来た。人間と言うのは、一目会うだけで“この人は世界が違う人だ”と分かるものなのかも知れない。青峰くんがまさにそうだった。奇跡的に高校の三年間ずっと同じクラスで、近くで彼を見て来たけれど、ああ、この人とは一生道は交わらないんだって。私の勘は当たるのだ。
 だけど、これもまた人の気持ちと言うのは不思議なもので、だめだと思えば思うほど惹かれてしまうらしい。この人はだめ、どうせ道が分かれてしまうんだから、だから知ろうとしてはだめ―――そう何度も自分に警鐘を鳴らした。けれど、本能が理性を越えて行くのは簡単で、気付けば私は誰よりも青峰くんに近いクラスメートになってしまっていた。

「久し振りだね、青峰くん」
「おー。も書類提出か?」
「うん」

 卒業を間近にした3月に入ってすぐ、自由登校になった今、もうこうして青峰くんと教室で会えるのは奇跡に等しかった。あんなにも、何の理由もなく毎日合わせていた顔。こんなに久し振りに感じるのは、長期休暇後くらいのものだった。けれど、これからは同窓会だとかクラス会だとかでしか会えなくて、毎回「久し振り」から始まるのだろうか。まだ始まってもいない未来のことを考えて、一人寂しくなった。
 青峰くんはどうやら、進路関係の書類を学校にとりに来たらしかった。茶封筒を抱えてあくびを一つ。私は私で、進路の決定を担任に伝えに来ていた。
 三年生になってから、私たちは一度も進路の話をしたことがなかった。分かっていたからだ、卒業したら滅多に会えなくなることが。お互いの進路は風の噂で耳に入っていた。青峰くんは、今後アメリカへ行くという話もだ。

さー…」
「うーん…?」
「…いや、なんでもねぇ」
「ナニソレ」
「なんでもねぇんだよ」

 それでも、何かを言いたげにしながら大きな茶封筒を雑に鞄に突っ込んだ。大事な書類なんじゃないの、というと、別にいーんだよ、とぶっきらぼうに返事をする。
 青峰くんはいつもと違った。どこが、と言われると具体的に説明はできないが、いつもと違ったのだ。目線一つ、声色一つ、仕種一つ、この三年間私が見て来たものとは明らかに違った。他のクラスメートに言わせれば違和感すらないだろう。それほどまでに、それほど些細な違いすら分かってしまうほどに、私は青峰くんを見つめて来た。誰よりも青峰くんを知ってしまった。適当にやっているように見えるけれど、本当はバスケに対して複雑な思いを抱えていたことも、一人で長い間葛藤していたことも。
 私がそこに口を出せるはずもなく、出来ることと言えば何も言わずにいつも通りに話しかけることくらいだった。バスケのことなんて何も分からない私が足を突っ込める問題じゃなかったから。何かしたいと思いながらもできなかったもどかしい日々。けれどいつからか、青峰くんは吹っ切れたようで、表情も変わった。よく笑うようになったと思う。けれど、今日はひとつも笑わない。それどころかその表情はいつもと比べて随分とかたい。

「…次会うのは卒業式かな」
「あー…だな」
「今何やってんの?荷造り?」
「終わった」
「珍しい。あ、持ち物少ないから?あんなに片付け苦手なのに、」
「おい」

 毎日賑やかだったのに、誰もいない教室。平日にこんな静かな教室にいつのは、酷く寂しい。二人きりの教室で、重い空気を払拭したくてなんとか話題を振るも、途中で遮られる。青峰くんは、困ったような顔をしていた。
 そんな顔をしたいのは私の方だ。好きだったのに、大好きだったのに、もう手の届かない人になるなんて。アメリカなんて、私がひょいとついて行けるような場所じゃないのに。手を伸ばすことさえ許されないような、そんな距離ではないか。好きだなんて言えない、とてもじゃないけど言えない。言ってしまったら、きっと私は引き摺ってしまう。いつまでも思い続けてやまなくなってしまう。この胸に押しとどめて、いつか薄れてしまうのを待つ方がずっといい。

「青峰くんはさ、きっとすごい人になるよ」
「はっ、なんだそれ」
「私の勘は当たるから、覚えておいた方がいいよ」

 ずっと近くにいた人。たくさんの季節を一緒に過ごして、いっぱい笑い合って、ふざけ合って、けれど決してその手に触れることはなかった人。一度触れてしまえば離れられなくなってしまうから、彼の手なんて知らない方が幸せなのだ。知らないままさよならを言うのが賢い選択だ。
 青峰くんはスクールバッグを肩にかけると、「そろそろ帰るか」と言う。その言葉にすら、「うん」と言うのを躊躇う。一緒にいれば、溢れるように言葉が止まらなくなりそうで怖い。言ってはいけないことを、言わない方がいいことを言ってしまいそうで。決まった道を逸れることは許されないのに、このまま進めば明るい未来が待っているのに、それをわざわざ手離すなんて愚かだ。
 最後のチャンスなのよ、と私の中の悪魔が囁く。言ってしまえば良いじゃない、言うだけならタダよ、と。何かを求めている訳じゃないのでしょう、と甘い言葉で誘って来る。

「あお、」
「お前も色々考えてんだろうけど」
「え……」
「もし今、俺たちが大人だったら、俺はお前について来いって言っていた」

 悪魔は笑う、「ついて行きたいって言っちゃいなよ」と。天使が釘を刺す、「生きる世界が違うのよ」と。正常な思考の停止した頭で、吐息と共に出て来た言葉は、「そっか」だった。それが精一杯だった。
 だって、十分じゃないか。そんな、最大級のプロポーズのような言葉をもらって、それ以上に何を望むと言うのだろう。彼と共に歩く道か、未来か。将来をくれと、望むのか。そんなことはできない。もうすぐそこに見えている私の将来を、今更路線変更することなんてできない。だって、まだ、十八じゃないか。何もかもに責任を持てないし、何もかも好き勝手できる現実はここにはない。
 だから、これは一生で一番の宝物の言葉だ。きっとこれから先、これ以上の言葉になんて出会うことはない。

「じゃあ、笑ってよ」
「何が“じゃあ”なんだよ」
「笑顔の方が、思い出はきれいに残るんだよ」
って時々訳わかんねぇこと言うよな」

 苦々しげに笑う青峰くん。そんな顔も、思いっ切り笑った顔も、大好きだった。きっと私は、誰よりもたくさんの青峰くんの表情を見て来た。知らない顔はないんじゃないかってくらい、いろんな青峰くんを知った。そのどれも、私は大好きだった。大好きだったから、その中でも一番大好きな笑顔を思い出のフィルムに収めておきたい。いつまでも色褪せない、私だけのアルバムの中に。もうこれ以上は増えることのないページ。その最後を彩る、最高の笑顔が見たい。
 やがて、小さな声で「ありがとう」と言った。言葉の裏に、大好きだった、という気持ちを隠して。私の高校の三年間は、青峰くんへの恋心と共に在ったのだ。

「じゃあ、また卒業式でな」

 そう言って、青峰くんは教室の扉に手をかける。その後ろ姿から目が離せない。
言いたい、言えない、待って行かないで、なんて言えない。ましてや、好きだなんて言えない。もうこれが、二人きりになる最後かも知れないのに、もう二度と言うチャンスは巡って来ないかも知れないのに。言えばいい、言っちゃだめ、二つの気持ちが狭い心の中でひしめき合う。
 扉の閉まる直前、右手を伸ばそうとして、けれどできなかった。行き場を失った手をぎゅっと握り、その場にうずくまる。
好きだった、本当に好きだった。高校生の恋なんて幼いと、幼稚だと言われるかも知れないけれど、私の気持ちにはいつだって嘘はなかった。
 テストの点数を競争して私が余裕で勝ってコンビニアイスを奢ってもらったこと。部活をサボる時はそのほとんどを私と過ごしたこと。その間、女子高生を前にスケベな雑誌をずっと読んでいたこと。グループ行動の嫌いな青峰くんに修学旅行中ずっと文句を聞かされていたこと。自由行動に付き合う代わりに現地の美味しいものをたくさん奢らせたこと。体育祭は二人でサボって屋上で昼寝をしたこと。学園祭の手伝いを何もしない青峰くんを連れ戻す役には、いつも私が指名されたこと。たまに小さな言い合いはあったけれど、大きな喧嘩なんてなかった。
 呼びとめた私を振り返った背中、冗談を言った時に私の頭を小突く手、「」とだるそうに私の名前を呼ぶ声、居眠りしている時に見せる幼い寝顔。どの季節も幸せな笑顔で溢れていて、大切で手離したくない時間、愛しい思い出。もうこれからは、その時間と段々離れて行くだけ。青峰くんとの物理的な距離も、時間的な距離も遠くなるだけ。

「あおみね、く…っ」

 好きでいることは辛いこともたくさんあった。けれど、泣いたのは初めてだった。それと同時に、泣くほど好きだったのだと気付く。簡単にこの気持ちとさよならできないんだ、と。
 いつまで引き摺るのだろう。いつまで忘れられないんだろう。先の見えない恋の終わりに、また心が軋んだ。








(2014/04/05)