私は頭痛持ちだ。頭痛薬を常備しなければならないくらいの頭痛持ちだ。電車に乗っている時、講義中など頭痛は私の都合などお構いなしに襲って来る。特に天気の悪い日は高確率で頭痛が起こる。しかし、なぜかうっかり今日に限って頭痛薬を飲まずに家を出て来てしまった。気付いた時にはもう遅く、電車の中で慌てて内服するも薬は一向に効かない。更に悪いことには、電車特有の揺れと、混み合った車内のむしむしとしたにおいで、私の吐き気は最高潮に達しようとしていた。生憎大学まであと五、六駅―――十五分はかかる。もう無理だ、次の駅で降りよう、そう決めた矢先、絶望的な車内アナウンスが流れた。

『信号点検を行うため、暫く停車いたします。お急ぎのお客様には申し訳ありませんが…』

 そのアナウンスに肩を落としたのは何も私だけではない。会社が、試験が、会議が、などとざわめき始める周りの乗客たち。その空気にますます私の吐き気は強くなる。「もうダメだ…!」そう思いながら口元を押さえたその時、すっとビニール袋が差し出される。その腕を辿ると、えらく背の高い高校生の男の子がいた。

「おいオネーサン、使うか?」
「へ……うっ」
「おい!」

 くらっと眩暈がしてその場にしゃがみ込むと、彼も慌てて同じようにしゃがむ。なんとか堪えたものの、この人口密度はかなり辛い。すると、彼は私の腕を掴んで立たせ、ぐいぐいと車両の前方まで進んで行く。車内では目立つ身長のお陰で、周りの人たちは彼を避ける。スムーズに進んで行くと、後方よりは空いている先頭車両まで来た。まあ後ろの方よりはましだろ、と言って彼は私の腕をようやく放す。そこでようやく改めて彼を見ると、高校生とは思えないほど大人びた風貌で、私は思わず委縮した。それでも「ありがとう」、と小さな声で言うと、照れたのかそっぽ向いて「別に」と返される。

「オネーサン、体調悪いのか?」
「雨の日はちょっと…頭痛が…」
「無理すんなよ」

 横目で私を見る。その視線にどきりとして、ぎゅっと鞄を握り締める。まだ頭痛は残っているけれど、吐き気はいくらか楽になった。彼に渡されたビニール袋を使わなくても済みそうだ。眩暈がしたのもさっきの一度きりで、今はもう何ともない。また電車が動き出したらどうかは分からないが、さっきの車両よりはましだろう。
 彼は、ずっと窓の外を見ている。就職してから高校生怖い高校生怖いと思っていたが、最近の高校生もなかなか良い所があるらしい。見た目によらず、彼は随分と親切だ。

『お待たせいたしました、信号の点検が終わったため、車両の運転を再開いたします』

 そんなアナウンスが流れ、ようやく電車は再び動き出す。やはりまた揺れ出すと気分が悪い。鞄からハンカチを取り出して口ものを押さえる。早く着け、早く着け、と揺れる度に頭の中でぐるぐると考えるも、電車はのろのろと動くばかり。すると、見かねた彼は私の肩を抱き寄せ、自分に凭れさせた。

「突っ立ってるよりましだろ」
「で、でも、」
「オネーサン一人くらい重かねぇよ」

 そう言って、ぐっと肩に力を入れる。確かに、壁に凭れるよりは随分ましだ。今日初めて会った、しかも高校生に助けられるなんて情けないし、ここまでしてもらうなんて申し訳ないのだが、背に腹は代えられない。それにこれ以上は私も限界だ。彼の言葉に甘えて身体を委ねると、なぜだか安心した。「目ぇ閉じてろよ」という声と共に、大きな手が両目を覆う。
 きっと友達なんかに言ったら、今の私はあまりに無防備で、危機感がなくて、危ないのだと思う。相手は高校生とはいえ何をするか分からない。財布なんかの貴重品を狙われるかも知れない。けれどどちらにしろ、今の私には大声を上げる気力もない。
 そうして、名前も知らない彼は、私が電車を降りるまでずっと寄り添っていてくれた。



***



「今考えても危機感なかったね」
「だから次の日見に行ったんだろ。は危なっかしいんだよ」

 あの一件からもう一年が経つ。あの日、大輝くんがいてくれたお陰で電車の中でやり過ごせたし、無事に職場にも着いた。入社早々欠勤なんてしたくないもの、今でも大輝くんには感謝をしている。
 名前も知らなかった高校生と再会したのは、すぐ翌朝だった。狙ったかのように下車した駅のホームにいた大輝くんは、「もう大丈夫なのか」と声をかけて来た。どうやら学校を遅刻してまでそれを確かめに来てくれたらしい。ただの通りすがりというか、出くわしただけの相手にそこまでするか、と気持ちは引いたが、ぐいぐい迫って来る大輝くんに抵抗できず、その場であっという間に携帯のアドレスと番号を交換することになった。以来、何度か連絡を交わし、休日に会うようになり、あれよあれよと付き合うことになってしまった。同僚や友人に知られたら大変である。なにせ、相手は未成年だ。至極健全なお付き合いではあるが、未成年だ。

「もうちょっとしっかりしてくれよ」
「あ、あの時は体調が悪かっただけでしょ!普段はそれ、私の台詞だからね!」

 心配してくれているのは分かるが、それと子ども扱いは別である。一応、私の方が四つ年上なのだ。頭を撫でられるのは嫌いではないが、寧ろ好きだが、時と場合による。今のは完全に子ども扱いだった。
 大輝くんの手を軽く叩いて振り払うと、むっとする大輝くん。ほら、こういう所は大輝くんの方が子どもだ。いくら見上げる身長でも、顔つきは大人みたいでも、中身はただの高校生。それに、男の子の精神年齢は実年齢より七つも下だという。そう考えると私は小学生男子と付き合っていることになるのか、実に恐ろしい。
 けれど、機嫌を損ねた大輝くんが私の頬をつねる手は大きく、大人のそれと変わらない。高校生ともなればそんなものかとも思うが、バスケをやっているという彼の手は一般的な男性と比べても大きいのではないだろうか。

「それより飲んだのか、頭痛薬」
「飲んでないけど…て、いちいち出掛ける度に聞かなくても大丈夫だよ」
「あの時みたいになったら焦るだろ」
「だからって、今日雨降ってないし」
「天気予報で午後から降るって言ってたんだよ。もテレビくらい見ろ」
「今から飲んでも降って来た時に効果ないからいいの!」

 意外と心配性だった大輝くんは、二人で外出する時は必ず薬を飲んだか聞いて来る。頭痛薬は飲んだか、痛み止めは持ってるか、酔い止めは飲まなくて大丈夫なのか―――過保護とも言える彼に、私はいつも苦笑いだ。確かに初対面時はインパクトがあったし、頭痛持ちなのは変わらない。けれど触ったら壊れるようなガラス細工ではないのだから、そこまで心配することもないのである。この頭痛とも何年も付き合っているのだし、頭痛が起こる前兆は天気予報を見なくとも察知できる。大輝くんは、心配性な上に案外律儀だ。見た目によらず、と言ったら睨まれそうなので言わないが。

「別に、もうちょっとくらい…」
「あ?」

 お陰で、言葉遣いは悪く悪態もつくものの、私に触れる時はいつも一瞬躊躇う。繊細なものを扱うかのように、その手は優しい。出会った時からそうだった。電車の中で私の腕を掴んだ手も、肩を引き寄せた時も、目を覆ってくれた時も、見た目にそぐわずそっと優しく触れていた。あの時はそれでも良かったが、こうして交際するようになっては、また状況も違う。優しいだけでは、少々物足りなく感じないこともない。けれどさすがにそれを伝えるには私もいまいち勇気が出ず、時とタイミング任せで待っているのだ。もうちょっと乱暴に扱ったって壊れないよ、と言える日を。

「ねえ大輝くん」
「なんだよ」
「手繋ごっか」
「…んだよ、いきなり」

 私から思いっ切り大輝くんの手を引っ張ると、僅かに眉根を寄せる。「嬉しい癖に」とからかえば、「それはの方だろバーカ」と返される。けれど、頭を小突く手は飛んで来ない。それでもまあ、今はまだいい。まだ暫くは大輝くんのぎこちない優しさに甘えていようと思う。






大事にされてるのは分かるけど


(2013/10/25 企画「年上のお姉さんは 好きですか?」へ)

Title by 恋したくなるお題