あの頃、私たちは子どもで、だからこそ多少の無茶は何でもできた。それなのに変な所で臆病で、慎重になって、ついに手に入らなかったものがある。それはきっと、私も彼も同じだ。





足りない体温





 黄瀬と私は高校のクラスメートだ。なんの腐れ縁か、唯一三年間ずっと同じクラスだった男子が黄瀬である。黄瀬は高校入学前から女の子に黄色い声援を飛ばされているような人間で、私はそんな黄瀬を遠巻きから眺めるという、ギャラリーよりも更に外側にいる生徒だった。確かに黄瀬はかっこいい。文句なしにかっこいい。背だって最近のモデルの中じゃずば抜けて高いだろう。ファンサービスも忘れない。
 けれど、私の従姉妹もモデルをしている関係で、そんなのはただのお面だってことに気付いていた。大人っぽいと評判の従姉妹も、蓋を開ければいつまで経っても年下の私に甘えて来るような可愛い人。従姉妹は可愛いもんだけれど、聞いた話ではやはり裏の顔というものが激しい人間がいるそうなのだ。
 黄瀬もそうに違いない―――そんな確信を抱きながら、実際にそんな黄瀬を目にしたのは夏休みが始まる少し前だっただろうか。人がいないと思って油断していたらしく、人気のない階段の踊り場で、盛大な溜め息と日頃の鬱憤をブツブツ言っている黄瀬がいたのだ。それはもう、冷たい冷たい目で。

『驚かないんスか』

 それが黄瀬の第一声だった。脅されるかと思いきや、驚いたりドン引いたりしない私に、ほっとするような表情を見せたのだ。
 黄瀬との付き合いはそれからだった。仕事やら部活やら勉強やら、私を含むそこらの高校生とは桁違いの忙しさを誇る黄瀬のストレス発散口は私になった。電話が来たかと思えば、延々愚痴。学校で会っても延々不満。私はただふんふんと話を聞いてるだけで、「大変だね、あんたも」と一言添えるだけだ。特別なことは、何もしていない。
 けれど特別ではないことこそが特別だったらしい。黄瀬は学年が上がろうとそんな私と関係を切る素振りは一切見せなかった。それどころか会話は確実に増えていたし、試合を観に来てくれとせがまれたこともある。観に行けばこっちが呆れるほど喜ばれ、リップサービスをいくつももらい、これじゃあまるで彼女みたいじゃないか、と錯覚しそうになった。
 そう、その頃にはもう、私にとっても黄瀬は特別なひとになっていたのだ。きっと黄瀬にとっての私も同じ。けれど、これまでの関係を壊したくない手前、やけに慎重になった。探りを入れるような、仄めかすような、試すようなこともたくさんした。それは私だけではない、黄瀬もそう。思わせぶりなこともたくさんされた。中でも、進路に関することはしつこく聞かれた覚えがある。

『神奈川っスか?東京っスか?てか、関東にいるんスか!?』

 じれったくなかったと言えば嘘になる。あの頃、私はとてももどかしくて、歯痒くて、何度黄瀬に思いを伝えようとしたかは知れない。でもできなかったのだ。できないまま、黄瀬は芸能人の階段を上ってどんどん遠くなり、私は私でヘアメイクの専門学校へ進んだ。最後までお互いに何も言わず、“良きクラスメート”として私と黄瀬の関係は終わったのだ。
 これで終わりにしようと決めて、泣いた。けれどどうしてもできなかったのは、黄瀬のアドレスを消すことだった。もしかしたら、と思うと消せなくて、自分のアドレスを変えることもできなかった。黄瀬が私のアドレスを削除している可能性なんて考えもせずに。けれどいつまでも黄瀬を引きずって生活なんてしていられない。本屋で見掛ける雑誌の表紙を飾る黄瀬に胸を痛めながら、私は必死に勉強した。そうして無事、専門学校も卒業した。
 その後は、従姉妹という伝手を使って芸能界という世界で仕事をしている。黄瀬に近付きたかった訳じゃない。この広い芸能界で、まさか私が黄瀬を担当することになるなんて考えたことがなかった。そもそも、私はどちらかというと女性の方が得意なのだ。従姉妹とは時々一緒に仕事をするけれど、男性を担当したことはまだ両手で足りるほどだった。
 “その日”は、突然訪れた。

「ごめん、モデルにインフルエンザうつす訳にはいかないのよ…」

 鼻声で私に電話して来たのは、ヘアメイクの先輩だった。どうやら今日入っていた仕事を病欠しなければならないらしい。そこで、丁度空いていた私に急遽交替することとなった。いつもならば二つ返事で了解するというのに、今回ばかりはかなり気が重い。

「まあでもも上達してんだしさ、大丈夫だと思うよ。それに彼、そんな怒るような人じゃないし」

 問題はそこじゃないのだ。先輩が担当することになってるモデルが男性だと言うことも大した問題じゃないのだ。そのモデルが黄瀬だったことが大問題なのである。けれど、仕事に私情は挟めまい。渋々ながらもそれを声に出さないように、私は「分かりました」と一言だけ返事をする。
 高校の卒業式以来、一度も会っていない黄瀬。同窓会をしても、忙しいらしく出席してくれることはなかった。私を避けて、なんてそんな陳腐な理由じゃないだろう。毎月あちこちの雑誌に引っ張りだこの黄瀬には、せっかくの同窓会に出席する余裕すらないに違いない。

「喧嘩別れした訳じゃないのにね…」

 なんでこんなにも気まずいのだろう。顔を合わせづらい。黄瀬は私の顔を見てなんて言うだろうか。そもそも、覚えててくれてるのだろうか、分かってくれるのだろうか。
 私と黄瀬は、卒業式でボタンをかけ違えたままここまで来てしまった。それとももう、黄瀬はあの頃のことなんて綺麗な思い出として消化できてしまっているのだろうか。私だけがいつまでも引きずったまま、進めないままでいるのだろうか。…二度と交わることはないだろうと思っていた道が交わるのを前に、私は怯えている。進み続ける黄瀬と、立ち止まったままの私。それを目の当たりにされて、私は平静でいられるのだろうか。ちゃんと仕事をできるのだろうか。
 もし、初対面のふりをされたとしたら?―――不安は尽きないまま、先輩に教えられたスタジオへ向かった。



***



 現場の他のスタッフには担当の変更が伝わっていたらしく、すんなりとメイクルームに通された。黄瀬は一つ前の撮影に時間がかかっていて、少し遅れるそうだ。こういうことはよくある。特に、どういう訳か私はそういう仕事を担当することが多いのだ。運としか言いようがない。しかし自然と生まれてしまったすることのない時間は、私への無言の圧力のようにも思える。時計の秒針がやけに大きく聞こえる。これはなんのカウントダウンだというのか。持って来た道具や予め用意されていた道具をチェックしてみたり、部屋の中をうろうろしてみたり、とにかく落ち着けない。
 そして、そんな時間に終わりを告げられたのも突然だった。

「すみません!遅れました!……て、え?」

 勢いよく入って来た黄瀬は、しかし私の姿を確認するとその目を大きく見開き、言葉を失ったようだ。とりあえず、「今日担当するです」と言って名刺を渡す。仕事上では、初対面だ。
 何度も口を魚のように開閉させて、そしてようやく出て来たのは「なんで」と、ただそれだけだった。「担当するはずだった先輩が、インフルエンザにかかっちゃって…」「そういう意味じゃなくて」…黄瀬の聞きたいのはそういうことじゃない、それも分かっている。分かってわざととぼけたふりをした。それをも見抜いた黄瀬は、苛立ったように僅かに顔を歪める。
 なんで、と言われても、仕事は断れないではないか。それとも、今日の担当が私になったと知れば、黄瀬は担当を変えてくれと頼んだのだろうか。そう考えるとなんとも悲しい。

(避けていた訳じゃない)

 そう、わざと連絡を取らなかった訳じゃない。ただ、「もうこれ以上は黄瀬との関係は進まない」と勝手にピリオドを打った。疎遠になって行ったのは、そんな私の思い込みだったのかも知れない。

「…断らなかったんスか」
「断れないよ、仕事だもん」
「そ…か」

 もっと他の答えを欲しがっている目だ。ああもう、そんなことまで私はまだ覚えているなんて。あまりにも未練たらたらな自分に嫌気がさす。…けれど、他の答えなんて私は言えない。高校生の時とは立場も背景も何もかも違う。これは、仕事なのだ。黄瀬もそれは十二分に理解している。だから、あの頃であれば言えたであろう、「他に理由があるんじゃないんスか?」という返しをしなかった。
 大人になるとは、こういうことなのか。あの頃はあの頃で背伸びをしていた。試したり、探ったり、仄めかしたり、それを歯痒く思いながら楽しんでいる部分もあった。今もほら、黄瀬の表情や仕種一つに何かを見付けだそうとしてしまう。あの頃の悪い癖が、今になってまたぶり返して来た。ただ、それが今は辛い。どれだけ探っても、もう本当にここから先は何もないのだ。今、波に乗ってるモデル・黄瀬涼太がスキャンダルなんて起こしたら只事じゃないのだ。
 本当は会いたかったから―――そんな言葉をぐっと飲み込む。

「とりあえず、よろしくっス」
「失敗しても怒らないでね」
「えっ」
「嘘よ」
「冗談キツイっスよー」

 ねえ、だからせめて今だけ。私が彼の担当であるほんの数時間の間だけ、昔に戻りたい。無理矢理のようでも、取ってつけたようでも、周りの目なんて何も怖くなかった高校生の頃みたいに、このひとときだけ戻りたい。まるであの時の続きをするみたいに。
 まだ駆け出しの私でも、従姉妹はこの手を「魔法の手だね」と言ってくれた。だから、私は魔法をかける。今日だけ誰より黄瀬に近い女の子になるのだ。シンデレラの魔法が十二時で解けてしまったように、今日の撮影が終われば私の魔法も解ける。そうすれば、今度こそ本当のさよならなのだ。

 撮影は順調に進み、押していたスケジュールは巻き返す結果となった。カメラマンからの評判も非常によく、今度の雑誌も良い出来になりそうである。私は撮影の合間にメイクを直したり、カメラマンの希望に沿って髪を変えてみたり、そうやってやることがある間は余計な事を考えずに済んだ。
 撮影が終わると、緊張していた心が一気に気の抜けたようになった。重い商売道具を肩にかけ、深い溜め息をついてスタジオを出ると、どういう訳か黄瀬が待っていた。ぼうっと明後日を向いていたと言うのに、私が出て来た途端こっちをじっと見つめているということは、私に何か用があるのだろう。構えながらゆっくりと、入口の階段を下りた。黄瀬の前まで、辿り着く。

「俺、知ってたっスよ」
「なにが?」
がヘアメイクの仕事してるってこと。事務所の後輩がよく担当してもらってるみたいだし」
「そう、なの……」
「うん。だからさ」

 言って、そっと私の頬に片手で触れる。黄瀬の親指が、私の目じりをなぞった。まるで涙を促すかのように。

「いつか俺も、て思ってたんだけど…」
「…………」
「こんないきなりとは思わなかったっスわ…」
「…………」
「さすがに、キツイなー…」

 さながら私に泣けとでも言いたげな黄瀬の方が、よほど泣きそうで酷い顔をしている。けれど不謹慎ながら、私と全く同じ思いでいてくれたことに、少なからず嬉しいと思う自分がいる。私だけじゃなかったのだ、高校の卒業式で時計が止まっているのは、私だけじゃなかった。黄瀬も、着々と日本を代表する男性モデルの地位を築き上げながら、進めない時間があった。私と同じように。
 黄瀬も黄瀬で、自分の立場を分かっている。ここで私とどうこうなれば、自分が築いて来た今のポジションは全て崩れるかも知れない。私もまた、二度とこの業界で仕事ができなくなるかも知れない。そう思えば、簡単に黄瀬の手を取ることなんてできなかった。
 だから、一度俯いて顔を上げた黄瀬は、笑っていた。これが最後だと目で語りながら。

「仕事、応援してるっス」
「私も黄瀬のこと、応援してるから」

 じゃあ、と言って黄瀬は私に背を向ける。
 次に仕事で出会った時には、もうこんな風には話せないかも知れない。モデルの黄瀬涼太と、ヘアメイクのとして、仕事上での付き合いをきちんとしなければならないのだ。もう友人には戻れない。今度戻ったら、次こそ私は黄瀬に手を伸ばしてしまう。あの泣きそうな顔をした黄瀬を、二度と離すものかという思いを込めて、これ以上ないほどに強く抱き締めてしまうかも知れない。
 後戻りできない道を選ぶ覚悟は、私にも黄瀬にもなかった。

(黄瀬……黄瀬…黄瀬、黄瀬黄瀬黄瀬黄瀬黄瀬!!)

 長い夢を見ていたのかも知れない。私と黄瀬が高校のクラスメートで、仲良くなって、ちょっと良い感じの仲になって、でも自然と疎遠になっちゃって、偶然にも今日、再会した。そんな夢。

「…たし、……って、…私だって、いつか、て、思ってたよ…っ」

 夢はいつか消える。今日がその日だっただけだ。「もしかして」「いつか」なんて幻想をいつまでも抱いていはいられない。
 溢れた涙を両手で乱暴に拭う。そして、その濡れた両手をぼんやり見つめた。この手で掴めなかったもの、この手をすり抜けて行ったもの―――どんな思い出も、言葉も、いつまでも捕まえておくことなどできやしないのだ。いつかは、心の奥底にある宝箱に眠らせてしまわなければならない。そうしなければ動かせない時計が、私の中には存在するから。
 頭が冷えて行くのは、一瞬だった。それと共に、晒された頬も容赦なく冷えて行く。さっき、黄瀬に触れられた時には考えられないような冷たさになるのを、私は心にぽっかりと穴が空いたような気分で感じていた。








(2013/04/28 つらたん企画さまへ提出)

Title by tiptoe