忘れられない手のひら





 目立ちたくなくてもいるだけで目立つ人間は、それなりに目を付けられないことをしようとするものだ。例えば、元から派手顔だったり、とても背が高かったり。“彼”も別段、目立ちたい訳ではないだろうに、高校生としては規格外の身長を持ち、しかしながら先生から毎度毎度目をつけられている。そう、あのでかい図体で堂々と授業中居眠りをするのだ。確か彼はバスケ部だったか。運動部は大概どこも練習は厳しく、バスケ部もその例外ではないらしい。
 私の隣の席の火神くん、授業の中身関係なく居眠りする彼は、一体学校に何をしに来ていると言うのか。呆れながらも気になる、隣の彼。

(何をしに……部活、て言うんだろうなあ)

 シャーペンを握り、ノートを開いてはいるものの、一向にペンは動かない。また、さっきから教科書のページもめくられていない。短髪の火神くんが俯いた所で髪で顔を隠せるはずもなく―――

「コラ火神ィ!!」

 担任の授業だと言うのに、居眠りしてまた怒られた。一瞬、はっとして顔を上げるものの、また一、二分でうつらうつらとし始める。気持ちよさそうに寝ていることがあれば、余程部活が疲れるのか眉間に皺を寄せていることもある。今日は何か、今にも魘されそうな顔をしている。
 私は料理部で特に厳しい部活ではなく、しかも週に1回しか活動していないため部活を大変だなどと思ったことはない。中学も同じ料理部だ。だから運動部の大変さというのは計り知れない。しかしこの体の大きな火神くんがこれだけ疲れるのだから、それはもう、相当ハードなのだろう。しかし毎日嬉々として体育館に向かう火神くんを見ていると、“大変”という意識はないのかも知れない。

「じゃあさっき言った所、次の授業までに予習して来いよー」

 チャイムが鳴り、先生がそう言い残して6時間目の授業が終わる。ようやく火神くんは完全に目を覚まし、椅子に座ったまま伸びをする。見れば見るほど大きい。手足も長いし、まだ男の子は身長も伸びると言うし、着ている制服もその内窮屈になるのではないだろうか。男の子の成長って恐ろしい。
 じっと見ていると、視線を感じたのか火神くんがこっちを向いた。

「何かついてっか?」
「ううん、背高いなって」
はちっさいな」

 いつもバスケットボールを操っているであろう大きな手のひらで、私の頭を二、三度ぽんぽんと軽く叩く。全く痛くはなかったが、その手の温かさに少し驚いた。やや照れながら、「女子の中なら私は普通だよ」と返す。すると更に、「手もちいせぇな」と、私の左手を勝手に掴んで自分のそれよ合わせて来た。

「わ、わわ…っ」
「ん?どうした?」
「いや、なんでも…」

 一回りどころか、二回りは大きい火神くんの手。温かい手のひらは、ボールダコとでもいうのだろうか、とてもゴツゴツしていてかたい。心臓がどきどきと拍動するのに合わせて、手のひらまで脈打っているみたいだ。
 私が火神くんの手のひらをかたく感じたみたいに、火神くんも私の手を柔らかいと思ってくれているのだろうか。それとも、何とも思っていないのだろうか。火神くんはアメリカ育ちだと言うし、あっちはスキンシップが日本よりも激しいと言うし、女の子と触れ合うことも何とも思わないのかも知れない。

「…火神くん、さん、何してるんですか」
「うおお、黒子!?」

 突如、ぬっと現れたのはもう一人のバスケ部員、黒子くんだった。この二人は仲良いと言うか、なんというか、よく喋ってはいるけれど、仲が良い、と形容するのは何となく違う気がする。
 咄嗟に離した左手を惜しいと思いながら、まだどきどきする胸をその左手で押さえる。…さほど、意識した相手ではなかった。単に隣の席になって、だから少し話す程度で、苗字を覚えてもらったくらいで、男子の中ではよく話すクラスメイトなだけで、最初から気になっていた訳ではなかった。話すと言ってもよく話す訳ではないし、毎度会話が弾んでいる訳でもない。例えば家ではどんな風に過ごしているのかとか、どこに住んでいるのかとか、そういう具体的なことは一つも知らない。名前と、バスケ部であることと、バスケが好きなのだろうというだけ。たったそれだけで人を好きになれるだなんて、思ってもみなかったのだ。思い出しても、それが果たしていつからだったかすら、曖昧なほどに。

「ところでさん、次の予習の範囲を火神くんに教えてあげて下さい」
「いやお前が教えろよ」
「僕も聞いてません」
「威張るところじゃねぇ!」

 黒子くんは読めない表情で私を見る。
 もしかして、助け船を出されたのだろうか。いや、黒子君も居眠り常習犯だから本当に予習範囲を聞いていなかった可能性も否めないけれども。それにしては、自然に見せ掛けてあまりにも不自然だ。黒子くんは何もかもお見通し、だったりするのだろうか。冷や汗をかきながら予習範囲を伝えると、ノートに殴り書きをする火神くん。その必死さがおかしくてつい笑うと、火神くんが珍しく照れて見せた。

「火神くん、ノートに書いても持ち帰らないじゃないですか」
「じゃあ携帯にメモ、」
「じゃあさん、アドレス聞いても良いですか」
「へ?私?」
「はい」
「いいけど…」

 鞄から携帯を取り出して、黒子くんの携帯と向き合わせる。なんだか、この先の展開が読めるような、読めないような。意外と黒子くんは強引だったのだと知る。ずっと大人しくて喋らないイメージだったのに、結構容赦ない発言もするらしい。「では後で予習範囲を送ってもらっていいですか」「う、うん」…どうやら予習範囲を聞いていないのは本当だったらしい。
 黒子くんの目的は分かった。私と黒子くんがアドレス交換をしている間に、ちらっと一度だけ、ほんの少しだけ、火神くんの方を彼は見たのだ。多分に、私と火神くんにアドレス交換をさせたいのだろう。しかしこの流れだと、私が黒子くんに予習範囲を教えて、黒子くんから火神くんに伝達される、というルートが取られるのではないだろうか。
 そっと、携帯を閉じてしまおうとした。

「あ、の、、俺も知りてぇんだ、けど…」
「へ…」
「だから、アドレス」
「う、ん、いいけど」

 まさかの申し出に、ぎこちない返事と動きになる。僅かに震える手で携帯を操作すれば、なんでもない操作なのに何度も何度も失敗してしまった。どんどん熱くなる頬で更に恥ずかしくなりながら、携帯の画面ばかりを凝視して操作を続ける。お互いに無言のままアドレス交換を行い、それをじっとなんとも言えない表情で見下ろしている黒子くん。やがて、私のアドレス帳には火神くんの名前が表示された。
 こんなにも緊張したアドレス交換は初めてだ。一度収まったはずの激しい拍動が舞い戻って来る。これから私は、火神くんにメールを送る度にこんな気持ちになるのだろうか。身が持たない気がする。

「さて、部活に行きましょう」
「お、おう。じゃあな、
「うん、がんばってね…!」

 手を振りながら、慌てて教室を出て行く火神くんと黒子くんを見送る。黒子くんが入って来てからは嵐のようだった、と私は捕捉息を吐き出した。そして、もう一度携帯のアドレス帳を眺める。カ行にの一番上に表示された“火神大我”の四文字が、さっきまでの出来事が夢ではないことを物語っていた。
 携帯と、それから左手。何度も何度も左手を閉じたり開いたりしながら、さっきの火神くんの手のひらを思い出す。あのかたい手のひらを思い出しながら、メールを打った。予習ページを打った最後にもう一度、「部活がんばってね」と付け足して。私の手のひらと、バスケットボールの感触とを、彼は比べるだろうか。それとも、私の手のひらなんて忘れているだろうか。きゅっと、胸の奥が詰まるような感覚がした。








(2013/03/03)