仕事中に黄瀬さんに会うことはほとんどない。私も黄瀬さんも自分の部署を離れることがかなり少ないのだ。他部署へのお遣いに行くとしても、廊下でばったり、なんてことは確率がかなり低い。それでも、なぜか私の夜勤と彼の当直が被ることは結構あって、珍しいこともあるものだと思っていた。…例のお食事から一カ月、職場では顔を合わせることのなかった私たちだが、実は職場の外で何度か会っていた。と、いうのも。

さん、もう彼とは一ヶ月なんだって?」
「え、ええ、まあ…」

 更衣室で隣のロッカーの先輩に聞かれ、ごにょごにょと答える。そう、付き合って一カ月経った。食事に行った日、あのまま付き合うことになったのだ。そんなドラマのような展開を自分が体験するなんて、どこの誰が予想しただろう。実はこの後も会う約束になっているのだが、未だ付き合うだとか、彼だとか、そんな言い方をされるとどこか痒い感じがする。慣れないからだろうか、そわそわするというか、落ち着かないというか、まだ何か夢でも見ているような気分になるのだ。なので、その交際相手があの事務課の黄瀬さんだとは誰にも言っていない。問い詰められたが私が固く口を閉ざしたため、近頃では「の彼氏は存在しないのではないか」と言われ始めている。それならそれの方が都合が良いため、私が放置している。

「いつも何してるの?」
「え、と…ご飯行ったり…」
「うん」
「ご飯行ったり…」
「うん」
「ご飯、行ったり…」
「えっ、それだけ?」
「はい」

 それに付随する何かはあれど、メインが食事なのは変わりない。大体、私と彼の休日が被ることも珍しいのに、遠出なんてできるはずがない。先輩は「何かあったら相談しなさいよ」と心配そうに言ってくれるが、付き合っているという実感も湧かない癖に、不安も何もあったもんじゃない。適当に笑って誤魔化し、そそくさとその場を後にする。さっとメイクを直して待ち合わせの場所まで駆けつける。黄瀬さんは職場の通用口で良いんじゃないかと言ったが、誰に目撃されるか分からない。職場恋愛(と言うとまた大袈裟だが)は結構難しいものなのだ。…そういう訳で、いつも待ち合わせは人でごった返している駅前にしている。これがなぜか、すぐに黄瀬さんに見つけられてしまうのだ。普通ならば黄瀬さんの方が目立つため、先に私が黄瀬さんを見つけるだろうに、私から先に黄瀬さんを見つけられたことはまだない。ただ唯一変わったことと言えば、呼び方が“さん”から“さん”に変わったことだろうか。

さん!お疲れ様っス!」
「お疲れ様です」

 ほら、今日もそうだ。きょろきょろしていたら黄瀬さんに見つけられてしまった。また今日もダメだったか、そう思いながら彼を見上げる。黄瀬さんの方が随分背が高いため、人より高い視界から私を見つけられるのだろうか。それにしても、まだ“さん”と呼ばれることにも照れている自分がいる。かあっと顔が熱くなるのを感じて、マフラーに顔を半分埋めるように俯く。…すると、急にずいっと顔を近づけて私の顔を覗き込んで来た。驚いて一歩下がると、がしっと肩を掴まれる。

さん、何耳に穴開けてんスか!」
「……は?」
「ピアスっスよ!」
「い、いや…前から開けようと思ってて…やっと…」

 これまでずっと機会を逃して来ていたが、丁度この間お給料日だったため、思い立ったが吉日、急にピアスを開けたのだ。そういえばそれ以来一度も会ってはいなかったが、言う前に気付かれたのは初めてだった。意外と誰にも気付かれないもので、同僚にも自己申告したくらいだ。さすが黄瀬さん、細かい所にまで目が行くだなんて。しかし、その反応は意外なもので、情けない顔をし過ぎて痛くなかったかだとか、消毒は怠っていないかだとか、まるで私が大怪我でもしたかのようなことばかり言って来る。これにはかなり脱力した。今はまだファーストピアスとはいえ、初めてつけたピアス。きらきらと光る小さなガラスの粒を鏡で見ては嬉しく思っていたのに、この反応はちょっと頂けない。

「…似合うって言ってくれると思ってたのに」
「え?」
「こういう時には褒めてくれないんですね」
「ご、ごめんっスさん!拗ねないで下さいよ!」
「拗ねてないですよ」

 苦笑いすると、ほっとしたように笑って見せる。ころころと表情の変わる忙しい人だ。そういう明るさも彼の魅力の一つなのだろうが、そんな一つ一つに対して、日に日にどきどきが増すばかりの私は進歩しているのか、していないのか。

 黄瀬さんは私の左手をさりげなく攫うと、「冷たいっスね」と言ってまた笑った。手入れをしてもしても事務課の女の子のようには綺麗にならない手。あちこちひび割れして、がさがさの荒れた指先。けれどそれを咎めるでもなく、黄瀬さんはいつも「がんばってるっスね」とこの手を撫でてくれる。手を繋ぐことはかなり緊張して、本当は振り払いたいくらい恥ずかしいのだが、この手を褒めてくれる瞬間はとても好きだ。まるで女性の手とは思えないような荒れ方をしていても、その理由を知っている黄瀬さんは、まさか咎めることなんてできないと言う。そうして私を見ていてくれること、それを言葉にして伝えてくれることに、私は安心を覚え、彼に心を許すきっかけとなった。だからこそ、何も言えない私に、いつかは愛想を尽かされるのではないかと不安に思うこともあったりして、交際というのは非常に難しい。

「黄瀬さん」
「はい?」
「…なんでもないです」
「そっスか?そういえば、」
「黄瀬さん」
「は、はい、」
「私といて楽しいですか?」

 私は、楽しい半面いつも反省ばかりだ。もっと笑えばよかった、もっといろんな話をすればよかった―――黄瀬さんと別れて部屋に戻ると、いつもそんなことばかり考えている。文句や不満はいくらでも出て来る癖に、黄瀬さんと二人になるとどうすれば良いか分からなくなる。どんな話をすればいいのだろう、黄瀬さんが私を笑わせてくれるように、どうしたら黄瀬さんは笑ってくれるのだろう。

「楽しいっていうか、嬉しいっス」
「嬉しい?」
「ずっと見てたさんが隣にいてくれて、職場でしか会わなかったのにこうやって外でも会えるようになって、さんの彼氏になれて嬉しいっス」
「黄瀬さん…」
さんの考えてることは大体分かるっスよ。話すのあんまり得意じゃなさそうだし」

 頷く代わりに、握られている手をぎゅっと握り返してみた。すると、黄瀬さんはそれを感じて小さく笑う。そして空いている手で私の頭を撫でてそのまま軽く抱き寄せた。人ごみで誰も私たちに注目していないとはいえ、やはりこんな外では恥ずかしい。無言で胸を押し返してみても、逆に力を入れられてもっと体が密着してしまった。全身に熱が回る。諦めて大人しくされるがままになっていると、黄瀬さんはまた「さん」と私を呼んだ。

「ピアス、似合うっスよ」
「ありがと、ございます…」
「今度の誕生日プレゼントはこれで決まりっスね」
「言ったら楽しみがなくなるじゃないですか」
「あ…」

 どうやら全く考えていなかったらしい黄瀬さんに思わず笑ってしまうと、ようやく解放された。「良いです、誕生日が待ち遠しくなりました」「今から似合いそうなの目つけておくっス!」そうしてまた、黄瀬さんから手を繋がれ、歩き出す。

 最初からそうだった。黄瀬さんは私の欲しい言葉をいつでもくれた。まるでそれは魔法のように、私の尖った心を溶かして行く。私のような扱いにくい人間に、どうしてそこまでしてくれるのか。好きだからだと彼は言ってくれたけれど、嬉しくて嬉しくて、本当はいつだって泣いてしまいそうになる。誰にもちやほやされなくていい、自分だけが私のことを知っていれば良いのだと言い切った黄瀬さん。その言葉通り、次々と私の心の奥底を見抜いて行く黄瀬さん。そんな彼に救われながら、不安を抱く私。不釣り合いなほど何もできない私。名前を呼ぶことさえ遠慮してしまうくらいに引け目を感じながら、手を繋いで隣に立つその矛盾。脱却する方法なんて知らなくて、今日明日とすぐに私が変われる訳でもなくて、けれど何か、変えたくて。

「黄瀬さん」
「はい」
「……って呼んで下さい」
「え?今なんて…」
「だ、だから、さんじゃなくて、って…代わりに、私、私も、呼び方、変えるので…」

 ぼそぼそと、最後の方はひとりごとのようになる。けれど黄瀬さんには聞こえていたようで、立ち止まって目を見開き、私をじっと見つめた。

「いいんスか?」
「え?」
、でいいんスか?」
「それで、いいです。あの、涼太さんて、呼ぶので…」
「…………」

 あまりの恥ずかしさに顔も見られなくなってしまった。しかし、黄瀬さんからの反応が何もない。唐突過ぎて困らせてしまっただろうか。私は本当に黄瀬さんを困らせてばかりだ。…黄瀬さんの様子を窺うため、恐る恐る顔を上げる。そして今度は私が目を瞠った。あの黄瀬さんが、顔を赤くして私を見下ろしているのだ。あまりの驚きに私も言葉を失う。はっとした黄瀬さんは、口を押さえて顔を背けてしまった。そんな、赤面させるようなことを少しでも言っただろうか。黄瀬さんを赤くさせるようなことなんて、何一つ言った覚えはない。

「あ、あの…?」
「あんまりオレを喜ばせないで下さいっス」
「え、と…どこが…?」
さんって呼びたいって言った時、渋ってたからまさかって呼んでくれなんて…」

 夢にも思わなかった。そんなことを言われた。それを見ていると私まで釣られて顔が熱くなってしまう。向き合いながら二人して黙り込んでしまい、その場から動けない。

 黄瀬さんにとっては、名前で呼ぶなんて簡単なことなのだと思っていた。私ばかりが、ずっと先を行く黄瀬さんを追いかけているのだと思っていた。けれど、思えば黄瀬さんはずっと私を追いかけてくれていたのだ。私が黄瀬さんの方を向くもっと前から、私を見ていてくれたのだ。それを思うと、また嬉しくも恥ずかしい気持ちでいっぱいになる。また、黄瀬さんから嬉しい気持ちをもらってしまった。けれど、ふと思う。きっと、私の嬉しいことが黄瀬さんの嬉しいことで、黄瀬さんの嬉しいことは私も嬉しいのだと。恋愛経験なんて数えるほどもない私は、そんな簡単なことさえ今思い知った。そうしてお互いが嬉しくなる度に、どんどん好きになって行く。だから日ごと気持ちは膨らみ、ときめきが止まないのではないだろうか。

「ずっと遠い人だと思ってたんスよ、のこと。今でも毎日夢みたいっス」
「もう、遠くないですよ」
「そっスね」

 確かめるように、黄瀬さんは私の左手を握り締める。その確かさを感じながら、私の心はどんどん温度上昇を始めるのだった。





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(2012/12/29)