さん、早いっスね」
「人を待たせるのが苦手なので…」

 夜勤明けの18時、約束通り私は駅前で黄瀬さんを待った。実は、あれはからかわれただけなのではないかと、少し不安だった。けれどちゃんと時間通りに、いや、時間の五分前に黄瀬さんは現れた。私はと言うと、あまりに早く準備ができてしまい、落ち着かなかったのでここに到着したのは二十分ほど前である。

 どんなお店に行くのかは聞いていないが、服は無難にクリーム色のワンピースにした。腰に黒いリボンがついており、スカート部分はレースが二段に重なっている。私の持っている中では、今のところ一番“よそいき”な格好だ。コートもブラウンで、派手すぎず、地味すぎず、ではあると思う。服に悩んだのは、何もお店の雰囲気が分からなかっただけではなく、相手が黄瀬さんだからだ。前にも言った通り、黄瀬さんはかなり目立つ容姿をしている。彼に恥をかかせてはならない、という思いも私にはあった。

「すぐそこのお店っス。この間開店したばかりのイタリアンのお店で…」
「し、知ってる…!」

 部署でも話題になってたお店だ。しかしなかなか雰囲気が入りにくく、まだ誰も行ったことがなかったのであった。さしてお高い訳ではないのだが、外観がかなりおしゃれなのだ。女性ウケしそう、と称するのが相応しいだろうか。今まではお店の前をさっと通り過ぎるだけだったが、お店をいざ目の前にして身構えてしまった。ランチももちろんしてはいるが、この仕事、同僚と時間が合わないのである。そういう訳で、部署ではこの店に足を踏み入れた最初の人になった訳だ、私は。中世ヨーロッパを思わせる構えに、ぼんやりとした淡い照明。昼は友人とランチでも、夜はデートに持って来いだな、と思った。

「黄瀬さん、こういうお店に慣れていそうですね」
「それは…喜んでいいんスかね」
「い、いや、あの…!」
「はは、冗談っスよ。噂になってたからオレも気になってただけで」

 メニューを私に差し出しながら笑う。黄瀬さんなら、誘うどころか誘われもするだろう。それこそ、私なんかとは経験が違うのではないだろうか。その目やその声にくらりとする女性は山ほどいるだろう。事実、私もこの雰囲気に流されそうになっている。いやいや、お前はそんな軽い女ではないはずだ、と自分に言い聞かせ、メニューを受け取った。

「もしかして、さんはこういうお店は嫌かなって思ったんスけど」
「そうなんですか?」
「一般の女性ウケしそうな所には近寄らなさそうで」
「興味がない訳じゃないけど、行かないだけですよ。今日は貴重な経験です」
「なら、良かったっス」

 また笑う。いつもにこにこしてはいるが、今日はやけに笑うな、という印象だ。黄瀬さんも当直明けでおかしくなっているのだろうか。私もぽーっとするのは夜勤明けだからだと信じたい。

 やがて、黄瀬さんは店員さんを呼び、料理を注文してくれた。メニューに書かれた料理の名前が難しく、それが一体どういった料理なのか、私には想像できない。そのため、黄瀬さんが適当にセレクトしてくれたのだ。こういうお店にはなかなか来ないから、余計食材の名前も訳が分からなかった。結局、黄瀬さんも同僚から勧められたというものを頼んでくれたのだが。「オレも緊張してるんスよ」と、唐突に私を見て黄瀬さんは言う。

さんは他の女性とは違うから」
「え…?」
「へらへら笑ったりしない、頭の良いヒトっスよ」
「か…っ、買い被り過ぎです…!大体、昨日の私の発言も聞いたじゃないですか」
「聞いたからこそっスよ。さん、オレはね、外見で判断する人間が嫌いなんです」

 微笑みながら毒を吐く。こんな黄瀬さんは初めてだった。大概、私が毒を吐いているというのに、聴き上手なだけかと思えば彼も色々あるらしい。多くの人間が贅沢な話だと感じるだろうが、恵まれた容姿は恵まれた容姿なりに悩みはあるのだろう。意味は違えど、見た目で判断する人間の愚かさを、私も黄瀬さんも知っていた。見た目が良ければ、それだけで人は寄って来ることがある。それは当事者が馬鹿なのか、寄って来る人間が馬鹿なのか。そのどちらにも属さない私には、二者に大きな違いを見出せない。しかし、黄瀬さんはそうではないと言う。

「そういう意味ではさんと同じっスよ」
「…なんて返せばいいか分かりません」
「オレはかなりさんに好印象を持ってるっス」
「…………」
「ちゃんと見てるヤツもいるんスよ。いつも笑顔で優しいさん、無茶な仕事を割り当てられても嫌な顔一つせずに引き受けるさん」
「ぐ…偶然その瞬間を見ていただけでしょう」
「そんなことはない」

 テーブルの上で両手をぐっと握りしめると、その手に黄瀬さんの手を重ねて来た。私が二つの手を合わせてもなお、包み込むほどの大きな手。確か、バスケをしているのだったか、その手のひらの硬さをを感じた。緊張で冷えた私の手が、たちまち温かくなる。それは爪先も同じで、冷たい風に冷えた脚もじわじわと熱を持って行くのが分かる。じっと私の顔を見つめ、黄瀬さんは顔から表情を消す。真剣そのもの、それは私が見たことのない黄瀬さんだった。

 流されているだけだ。雰囲気のあるお店で、照明もこんなに淡くて、慣れない男性と二人きりで―――そんなシチュエーションで心臓の速くならない女がいるだろうか。しかも、黄瀬さんは私の嫌な言葉を何一つ言わない。私を喜ばせる言葉ばかりだ。地道な仕事でも真面目にしていればきっと誰かが見ていてくれるなんて、そんなの嘘だと思っていた。その証拠に、容赦なく仕事を突き付けられ、負担は大きくなるばかり。私がどんな思いでいるかなんて知らないのだわ、とさえ思っていた。けれど、まさか黄瀬さんに見られていただなんて、夢にも思わなかった。

「少々頑固で気が強いけど、真面目なさん。決してモデルのようなスタイルでもないし、女優のような美人でもない。けれど、仕事をしている時に見せる笑顔のさんは、誰よりも輝いているっスよ」

 まるで告白のような言葉。いつの間にか黄瀬さんは両手で私の右手を包んでいた。私の手を励ますように、慈しむように、優しく握る。その温かさに私は一瞬、錯覚する。もしかして、私は思われているのではないかと。黄瀬さんにとって、特別な誰かなのではないかと、馬鹿な女のように勘違いしそうになる。励まされているだけだ、元気づけられているだけだ、同じ職場のスタッフとして。そう思いたいのに、赤くなる私に黄瀬さんはとどめの一言を言い放った。

「誰にもちやほやされなくたっていいじゃないスか。オレだけが知っていれば」

 まるで頻脈のように、一気に心拍数が上昇した。息苦しささえ感じ、私は言葉を失う。燃えるような強い眼で見つめられてしまえば、もう心を奪われたも同然。欲しかった言葉をこんなにも贈られて、気持ちが揺れない訳がない。やっとの思いで縛りつけられていた視線を外し、ようやく私の口をついて出た言葉は、「ありがとう、ございます」とただそれだけ。

 その時、かなり気まずそうに店員が料理を運んで来た。そうして自然と私と黄瀬さんの手は離れたが、右手は熱いような、痺れているような、とても変な感覚だ。そんな私の反応を見て微笑む黄瀬さんは、私を救ったのか、堕としたのか。グラスの中の水を飲んでも、冷静さは取り戻せなかった。





まさか、そんなわれるなんて。





(2012/12/20)