「黒子くん、落としてたよ」

 教室に戻ろうとしていると、クラスメートのさんが、今まで探していた現代文のプリントを届けてくれた。次の授業で使うのに、どこへ置き忘れたのかなくしてしまい、困っていたのだ。なかった所で十中八九ボクが当てられることはないけれど。

 さんとは、これだけの人数の中で、割と話す方だと思っている。とは言っても、業務連絡くらいだけれど。今のように話し掛けられるのは稀だ。ボクに話し掛ける人間自体少ないのに、さんはいつもボクも忘れず声をかけてくれる。よく、人のことを見ている人だと思う。それはボクも同じだからかも知れない。

「ありがとうございます」
「どういたしまして。…ねえ、黒子くんってバスケ部だよね」
「よくご存知ですね」
「うん、まあ。ね、部活楽しい?」
「楽しいですよ。さんも何か部活をやってるんですか」

 さんがこんな風に雑談を振って来るのは珍しいことだった。つられて、ついボクからもさんに質問してしまった。さんの足を止めてしまっただろうか、と一瞬後悔したけれど、そんな素振りは見せずにさんはにこやかに答えてくれた。写真部だよ、と。誠凛にそんな部活があること自体知らなかった。大勢の部員を抱えていないと、特に文化系の部活の場合は存在が霞んでしまうことが多いと聞いたことがある。しかしそれはそれで規則が緩いから続けやすいのだと、さんは続けた。

「一瞬を切り取るのよ」
「一瞬、ですか」

 指でフレームを作り、そこからボクを覗くさん。その仕草に、どきりとする。もし、そのさんのフレームが心をも見透かせたらとんでもないことになるだろう。実は今、こうしてさんと雑談していることがとても嬉しいこととか、本当はもっとさんと話してみたいんだとか、疚しい気持ちが丸見えになってしまう。決してそんな欲が顔に出ないように、ボクは至って平静を装った。尤も、そんな心配をしなくとも、さんの指フレームでは何も見透かすことはできないが。

「今度、体育館覗いてみようかな」
「バスケの一瞬を切り取るんですか?」
「たまには人間相手でもいいかなって」
「では普段は人間以外を?」
「花や動物が好きだからね」

 もう秋になろうとしているのに、こんなにも長く会話が続いたことは初めてだ。しかも、業務連絡でもなんでもない、ただのおしゃべりで。ボクは少なからず、柄にもなく舞い上がっていた。ほんの数分だと言うのに、過ごして来た数カ月以上に得られた彼女の情報はとても多い。こんな少しのことでさんのいろんなことを知ることができたのだと思うと、これまでの数カ月はもったいなかったのだと悔いることになった。

 クーラーの効いていない廊下は、窓を開けていても流石に蒸し暑い。外から入りこんで来る風もまた、昼休み直後では生温さばかりを孕み、ちっとも涼しくはなってくれない。さんのこめかみも、一筋の汗が伝った。それでも笑いながら話を続けるさんに、教室へと促すタイミングを見失ってしまった。それに、教室に戻ってもボクがさんと話を続けられるだけの勇気も自信もなかった。クーラーの効果で廊下は人が少ないからこそこれだけ話せるが、いくらボクが薄いからと言って、教室でも同じことができるかと問われれば、首を振る。

「良い写真が撮れたら渡すね」
「先輩たちも喜ぶと思います」
「違うよ」

 もう一度、今度はさんが自分の目の前でフレームを作る。

「黒子くんを撮りたいって思ったの」

 前回の窓から、一際大きな風が吹き込む。けれどそれも一瞬だけで、立っているだけで汗の出て来るこの空気を入れ替えてくれるだけの力はない。けれど、「じゃあ先に行くね」と背中を向けてさんが早足で帰って行ったあとは、まるで春のそよ風が吹いたかのようだった。決して強い風など吹いていない、少し空気が揺れた程度が限界だろう。それでも、風が吹いたかのようだった。さんが揺らした空気と共に、ボクの心もゆらゆらと揺れた。








(2012/09/14)