彼は、私を誰かと重ねることはしない。記憶を失う前の私と、今の私を比べることなど一度もしたことがない。今の私を受け入れてくれた、受け止めてくれた、見てくれたのだ。居なくなれば探してくれた。抱き締めてくれた。光だなどと言ってくれた。

 それはとても幸せなことのはずなのに、どうしても彼を思い出せない歯痒さに私はいつも胸が痛む。彼と重ねた思い出はどんなだったのだろう。どんな会話をし、約束をし、どうやって触れ合ったのだろう。彼の前で私は、どんな表情を見せたのだろう、どんな風に笑ったのだろう。彼が愛しいと思った私は、どんな声でこの人に「愛しい」と返したのだろう。


(分からないことは、辛いわ…)


 読書に疲れて文庫本をテーブルに投げ出せば、「ちゃんと戻しなさい」とデスクから困った声が飛んで来る。彼の後ろにある大きな本棚に、のろのろと文庫本を返しに行く。

 彼は休日も部屋に籠って仕事をしている。もうすぐ試験があるのだと言う。そういえば最近は遅くまで起きて仕事をしていることも多い。先に寝るように私に言うが、もうあのベッドで一人で寝ることができなくなった私は、寝たふりをして彼を待つ。やがて日付も変わる頃、ようやく彼は私を起こさないように静かにやって来るのだ。


「あまり、面白くなかったわ」
「ああ…その本はあまり評判も良くないね。彼にしては不発だった作品だ」
「前作の方が好きよ」
「私もそう思う」


 私が寝ていると思ってか、そっと髪を撫でたり、額に口接けていることを知っている。起きている間はそんなこと一度もしない癖に、やっぱり彼の思う“私”とは違うのかと、その時に改めて思い知らされた。

 ああ、胸が痛い。痛くて痛くて仕方がない。あの、一時期頻発していた頭痛と同じように、泣くほど痛い。それなのに泣けない。泣いてはいけない。きっと辛いのは彼の方だ。私は失うものは何もない、いや、失った後だったから分からないだけ。けれど彼は確実に喪失体験をしているのだ。


「さて、コーヒーでも飲むかい」
「…そうね」


 これ以上甘えてしまえば、私は自分を許せなくなる。







 

(2011/09/30)