思い出した訳ではない。けれど私を見る目、私にかける声は、無関係の者に対するそれにしては温度があった。それは勿論、元来の彼の性格もあるのだろうが、触れる指先の優しさは不特定多数ではなく私のためだけにあると。それに気付いてしまったのはいつだったか。気付かない振りをしたのは私だ。だって、私がこの人の足枷になる訳にはいかなかったから。

 それなのに、目を逸らし逃げようとした私をまた捕まえてくれた彼を拒むことなど、もう私にはできない。知りたいと願って良いのだろうか、自分のことを何一つ覚えていなくても、この人のことの名前すら思い出せなくても、ここに居ることはまだ許されるのだろうか。


「思い出したのかい?」
「何も…ただ、なんとなく…」
「勘の良さは変わらないね」
「ねえ、私はあなたの何だったの?」


 何かを期待した訳ではなく、明確な立ち位置が欲しかったのだ。この部屋に居座るだけの存在ではなく、この人にとっての私と言う存在を確かなものにしたかった。私の中でもそれは同じ。何もないから、何かが欲しかった。でこぼこの穴を埋めて、もう剥がれないようにしたかった。虚しさほど寂しいものはないのだ。私はここに居るのに居ないのも同じ。空っぽの心は落とせば簡単に割れて砕けてしまう。

 彼は微笑むと、両手で私の顔を包み、額をこつんとくっつけた。ああ、この手だ。私を大切に扱ってくれるこの手が、いつだって温かかった。涙を促すみたいに目元を親指でそっとなぞられれば、簡単に一筋、涙が頬を伝う。


「僕にとって君は、この世界で一番の光だ」
「光……私が…?」
「君にとってはどうだったか、聞いたことはないけどね」


 私もこんなことを言うのは初めてなんだ、と少し照れたように笑う。どうしようもなく胸が苦しい。だって、今の私はこの人の光にはなれない。彼との思い出や記憶が一欠片も残っていない私では、光になどなれないのだ。


「…ごめんなさい」
「なぜ君が謝るんだい」
「だって何も覚えてないわ」
「でも君はまた僕の所に戻って来てくれた。君がここに居てくれることに救われているんだよ」


 なぜこの人は私の欲しい言葉が分かるのだろう。救われているのはいつだって私だ。何も言わず居座る場所を与えてくれた。彼の無償の優しさにどれだけ救われているだろうか。何も言わない私に何も求めず、泣けば抱き締めてくれる、傍にいてくれる。私は今、この人にしてあげられることなんて何もないのに。この人の記憶にある私じゃないのに、この人の求める私ではないはずなのに。


「不思議だね、記憶なんてなくても僕は君を愛しく思うんだ。君もそう、見ず知らずの僕の手を取ってくれたね」
「それは……」
「言葉では到底表すことのできない、深い所で僕らは繋がっていると僕は信じている」


 もし彼の言うように目には見えない糸で繋がっているとすれば、切れそうなほどに細いのだろう。ともすればぷつりと切れてしまいそうな、そんな細い糸で。それを手繰り寄せて出会ったのが彼だ。そう、私にとっては彼が唯一の光なのだ。







 

(2011/09/30)