彼といれば怖くはなかった。相変わらず自分が何者なのか分からず大事な所が欠落したままというのは、どうしようもない不安に駆られたけれど、彼が同じ空間に、すぐ傍にいる時だけはその虚を埋めることができた。彼が私の足りない部分を埋めてくれ、温めてくれた。寒い、寂しい、怖いと叫ぶ心を静める彼の存在は、もうどうしようもなく手離しがたい存在へとなっているのだ。

 おかしいと笑うだろう。相手のこともよく知らない、でも自分のことはもっとよく知らないというのに、一人前に誰かを思うだなんて何の冗談かと。ただ、何もない私にとっては彼と言う存在が、彼を思っていることこそがゆるぎない私を保たせてくれた。


「教師って大変でしょう」
「でも楽しいよ。少なくとも私はそう思う」
「そっか」


 次の授業の準備をする彼の笑顔は、充実を表している。ああ、私はそんなこの人の生活を侵食してしまっている。得体の知れない私なんかが、この人の領域を侵しているのだ。

 それはとても罪深いことに思えた。同時に、いけないことなのだと、ここにいるべきではないのだと理解する。それなのにしがみ付いてしまった私の手。掴んでしまった彼の腕を自ら離さなければならないことは、こんなにも痛みを伴う。だけど不確かである私が、何も持っていない私が、空っぽの私がこの人の隣にいることは許されないのだ。


(だって、そうでしょう?)


 この人はこれからを生きる人。明日のある人。私は過去も未来もない。今の一瞬を呼吸するだけなのに、進んで行く彼の重りになってはいけないのだ。手を離さなければならない、私は。

 その日の夜は、一つのベッドで寝た。私が来てからずっと、彼は疲れていると言うのに私にベッドを譲り、自分はソファで寝ていたのだ。私がソファで良いと言ったにも拘らず、何か恐ろしい脅しと共にベッドに寝かしつけられたのだった。そんな私が、一緒に眠りたいと言えば、一瞬目を丸くする彼。けれどすぐにいつもの笑みを浮かべて「いいよ」と言ってくれたのだ。

 そして私は、彼が寝付いた真夜中に部屋を出た。







 

(2011/09/30)