知っているような、知らないような。曖昧の中に私はいた。「おはよう」の声も、「大丈夫かい?」の問いかけも、甘く柔らかく響く。知らないはずなのに耳に心地好いそれに、酔いしれるように私は目を瞑る。いや、目を背けたかっただけなのかも知れない。記憶と言う自分を揺るぎないものにするためのものが私には欠落しているのだ。それは時に酷く私を脅かし、震えが止まらなくなる。なぜだろう、もう私には感情なんて残されていないと思っていた。記憶と共に埋もれてしまったと思っていたのに。


「紅茶でも飲むかい」
「…飲む」


 私たちは多くを語らない。知りたくない訳じゃないけれど、必要でもないと思ったのだ。干渉しないこの空間が心地よく、余計な言葉は要らないと思ったのだ。向かい合って紅茶を飲む私たちの間に会話はない。

 私が知っているのは、ここは全寮制の学校で、彼は教師。この部屋は学校内に宛がわれた彼の部屋だと言うこと。彼は適当に部屋を出て行くし、適当に戻って来て適当に仕事をしている。私は彼が出て行くのを見送り、日がな彼の部屋にある本を読み、彼が帰って来るのを待つ。今日のような休日は、彼も部屋に籠りきりだ。


「怖いね」
「……うん」


 紅茶カップをソーサーに戻し、ぽつりと彼は零した。唐突な言葉、だけど何を意味しているのかが分かった気がして、私は頷く。不意に涙が出そうになったのを、紅茶を飲み込んで誤魔化した。喉の奥がきゅっと締まる。息を止めんとする不随意運動は余計私を苦しくさせるのだ。


「貴方も怖いの?」
「怖いよ、とても」


 そうしてまたいつもの笑みを浮かべる。泣きそうに目を細めて、何かを慈しむように。彼のその眼は、孤独を知っている眼だと思った。痛みを知っている人だと思った。何か大切なものが欠落してしまった私とは違う、人間らしい感情を持つ人。…立ち上がり、手を伸ばす。彼に近付いた私は、そっと彼の頭を引き寄せ、胸に抱いた。


「怖いけれど、一人じゃないね」


 独り言のように零せば、「そうだね」と泣きそうな声で彼はまた答えてくれた。







 

(2011/09/30)