私は泣いていた。目が覚めたら泣いていた。なぜ泣いていたのか分からないけれど、頬が濡れているということは間違いなく泣いていたのだろう。…ひんやりと冷たい床に頬を押し付ければ幾らか気持ちが落ち着く。やがてゆっくりと半身を起こせば、その場所に覚えはないというのに、どこか懐かしいような気がした。誰もいないただっ広い渡り廊下。外から差し込むのは冬の陽射し、冬の風。身震いをした後、私はくしゅんと小さなくしゃみをした。そんな私にふわり、温かい何かが首に巻かれる。


「風邪を引くよ」
「あ…りが、と…」


 振り返れば青年期から壮年期へと向かう途中であろう男性が、私にマフラーを巻いてくれていた。残念ながら彼の姿に覚えはない。…ライトブラウンの髪が、きらきらして見える。その色の柔らかさと同じく、優しく笑うその顔には、どこか疲労と陰があり、これまで楽には生きて来られなかったのであろうことを窺い知ることができた。


「ところで、君はここで何をしているのかな」
「分からない…目が覚めたらここにいたの」
「…名前は?」
「分からないわ…」


 私以上に彼が困っていた。口元に手を宛がい、どうすべきか悩んでいる。今また眉間の皺が深くなった。

 考えることも疎く感じ、私は目の前の男性の結論を待つ。自分と違って大人な彼は、きっと上手く纏めてくれるだろう―――妙な確信と安心を覚えながら、地面にお尻をつけたまま私は待った。やがて、彼も片膝をついて私と目を合わせる。


「とりあえず、私の所に来るかい?」


 ここがどこかも分からない私には他の選択などできるはずがなく、差し出された大きな手の平に私の頼りない手を乗せる。すると勢いよく引っ張られ、そのまま立ち上がれたかと思えば前によろけた。


「わ、わ…!」
「ごめんごめん」


 焦る私に口ではそう言いつつ、その気は全くないらしく笑って謝罪を述べる。雪の積もったあの庭のように、彼の笑みもまたきらきらと輝いている。

 随分冷えているね、と床に押し付けていた方の頬に触れ、彼は言う。私は何も言えずにただ頷いた。じわじわと頬が彼の体温に侵食されていくような感覚に、眩暈と痛みを覚えたのだった。









(2011/09/30)