これまで恋をしたことがなかった訳じゃない。興味がない訳でもない。私だって恋だ何だに興味のある年頃である。ただ、周りにピンと来るような相手が見つからなかっただけだ。かっこいいと噂の男子生徒を前にしても、確かにかっこいいと思えど恋をした時のようなときめきはまるでなかった。こういうのは縁の問題だ、焦ってハズレくじを引いたって困る。興味がないわけではないが、どうしても恋人が欲しいという類の人間でもないため、この人だ、と思う人に巡り会うのを気長に待つことにした。

 その矢先、出会ったのがレギュラス・ブラックだった。徐々にエスカレートして行く接触、それに私は確かに困っていたはずなのだ。困ってはいたけれど、嫌ではなかった。無理矢理振り払うことも自分からはしなかったし、嫌なら避ければ良い図書館も自ら足を運んだ。…そこでふと分かる。困っていたのはレギュラス・ブラックに対してじゃない、彼に対する自分の気持ちの扱いをどうすれば良いか分からなくて困っていたのだ。それをまさか彼に指摘されるまで気付かないなんて、私はやっぱりの言う通りただの馬鹿なのかも知れない。


「だから言ったでしょう?」
「核心を突くようなことは言ってくれなかったじゃない…」
「自分で気付いてこその恋心よ」


 はベッドの上で爪を整えながらこちらを見ずにさらりと言う。私もまた、ベッドにダイブして今日の出来事を思い出していた。夕日の射し込む図書館、書棚の影、私とレギュラス・ブラック、触れられた頬。耳に触れそうなほどに接近した彼の唇から紡ぎ出された言葉を、私はまだ夢か何かのように思えて仕方がない。耳元にかかった吐息や手首を掴んだ彼の手の感覚はこんなにも鮮明に覚えているのに、言葉だけが信じられずにいる。


「どうしよう…」
「どうって…まさか返事してないの?」
「それどころじゃなかったのよ!頭の中ぐちゃぐちゃになってたんだから!」
「あれだけ気の強そうなが恋愛に対してこれとはねぇ…」


 呆れたように溜め息をつく。そう、私は「僕のものになって下さい」と言った彼に、是とも否とも返事をしていないのだ。いや、できなかった。初めての距離に初めての言葉、まるで石になる魔法でも掛けられたみたいに硬直してしまった私に、レギュラス・ブラックは困ったように笑った。返事はすぐじゃなくて良いです、とも言ってくれたのだ。しかし時間を与えられれば与えられるほど迷ってしまう気がする。それに、その間中、ずっと彼のことで悩んでいなければならないのだ。あの後、図書館から寮までいつものように並んで帰って来たのだが、ぼうっとした私は両手の指じゃ足りないほど壁や柱にぶつかったり、何もない所で躓いたりした。それでも彼は、おかしそうに笑ってはいたが。

 言葉をもらって、途端に意識し始めた私の鈍い頭。だからさっき談話室で別れた時も、「また明日お会いしましょう、先輩」と言って微笑む彼に、私の心臓は大きく跳ねた。更にはまたもや私の頬に触れ、「今晩は冷えそうですから気を付けて下さいね」なんて言ったのだ。意識しないはずがないではないか。目の前の何を考えているのか分からなかった後輩が、実は自分に好意を抱いていたなんて、それはもう色んな感情が綯い交ぜになって溢れて来る。どうしよう、という不明瞭な不安。嬉しい、という素直な喜び。相反する二つが私の中で渦巻く理由はただ一つ、私と彼の住む世界は違うと言うことだ。


「確かに癖があると言えばあるけど、のこと大事にしてくれるんじゃない?」
「うーん……」
「私がこれまで見たブラックの笑った顔なんて、嘲笑くらいだもの。といる時のブラックを見た時は別人かと思ったくらい」
「言い過ぎでしょ、大体私のどこがいいっていうのよ」


 そう、それも私をずっと悩ませている問題だった。私でなくてはいけなかった理由は未だ分からないまま。何の接点もなかった私に好意を抱く、その要素はどこにあったのか。或いはあったのに私が忘れているだけか。枕に顔を埋めて唸ってみるも、当然記憶の底からは何も思い出せない。するとは私のベッドに腰掛けて頭に優しくぽんと手を置いた。聞いたら答えてくれるわよ、と言いながら。確かに、彼は私の聞いたことに答えてくれないことは一度もなかった。けれどまだ付き合ってもいない相手にそれを訊くと言うのはどうなのだろうか。


(…これまで通りに話せる気がしない)


 でも、そんな私を見てまたあの後輩はいつも通りに言ってくれるのだろうか。「おはようございます」も「図書館で会いましょう」も。…なんだ、私はただの我儘ではないか。どう返事をすればいいか分からない、けれどこれまで通りにして欲しいだなんて、自分勝手にも程がある。まずは彼にちゃんと返事をして――。


(でも、なんて?)


 今のこの舞い上がるような気持ちは、好きだと言う気持ちと直結しているのだろうか。これまで告白された時よりも明らかに動揺も大きいけれど、それは果たして恋のそれなのか。もし彼の気持ちに応えたとして、こんなにも中途半端のままでは失礼だし、彼を裏切ることにならないだろうか。人を好きになることは簡単だ、なんて言ったのはどこの誰だ。こんなにも難しいではないか。

 彼の親切に嫌味を言ってしまったり、冷たい言葉で返してしまったり、本当はいつだってあんな風に遠ざけるような言葉を言いたい訳じゃなかった。笑い掛けてくれる毎日は嫌だったのかと言われれば、絶対にそのようなことはない。またか、なんて思いつつ、どこか期待している自分もいたのではないだろうか。いや、それは改めて彼にあんなことを言われたから、今になってそんな風に都合のいい解釈を自分の中でしているだけだ。意識なんてこれまではこれっぽっちもしたことがなかったのに、今更。…それでも、私が良い返事をしたら今日みたいに触れてくれるのだろうか。




***




 朝、開口一番に言われたのは「酷い顔してるわよ」だった。それもそうだ、殆ど眠れなかったのだから。ずっとレギュラス・ブラックのことを考えていたせいで、寝付いたのは明け方だった。それも眠りは浅かったような、夢を見たような。詳しくは覚えていないけれど、レギュラス・ブラックが夢にまで出て来たことはしっかりと覚えていた。お陰で頭はぼうっとするし、食欲が出なければ身体も重い。今日が休日で本当に良かったと思う。こんな状態で今日授業に出れば、睡眠学習になるか変わらず彼のことばかり考えてしまって集中できないかのどちらかだ。

 いつもの三倍は動きの遅い私を置いて、他の子たちはさっさと朝食へ向かってしまった。私も早く行かないと食べ損ねてしまうが、大広間へ行っても何かを食べられる気がしない。それでもサラダだけでも食べておくか、と女子寮の階段を下りた。すると、静かな談話室でレギュラス・ブラックの後姿を見つけた。誰か待っているのだろうか。これだけ遅れれば、もう他の生徒たちは殆ど誰も居ないはず。私に背を向けているため、彼は私が降りて来たことに気付いていない様子だ。これは、声を掛けるべきだろうか、それとも静かにそっと出て行くべきなのだろうか。


(…あまり、ぎくしゃくしたくはないし…)


 小さく深呼吸を繰り返すと、私は意を決してその後ろ姿に声を掛けた。


「お、おはよう」
「…先輩?」


 僅かに声が上擦ってしまい、しまった、と口を押さえる。けれどレギュラス・ブラックはそんなことは気にもならなかったようで、特に笑うこともせず静かに振り向いてくれた。私の姿を見止めると、昨日までと同じように緩く笑う。どちらからともなく近寄ると、彼もさすがに寝不足な私の顔が気になったらしく「何かありました?」などという。


「白々しい、あなたのせいでしょ」
「僕ですか?……まさか先輩、一晩中悩んでいたんですか?」
「そのまさかで悪かったわね」


 自分の行為を然程重く受け止めていなかったらしい彼は、本当に驚いた様子だった。彼は寧ろ、昨日以上に何か元気な気がするのだが、気のせいだと思いたい。…頭を押さえる私に、くすくすと笑う。今はそんな少しの仕草にさえどきりとしてしまう。昨日までの私はどこへ行ったと言うのだろう。こうして向かい合って話そうと、横顔を見つめていようと、こんなにもどきどきすることはなかったのに。今は戸惑っている反面、こうして話せることに少なからず嬉しさを感じている。彼がいつも通りで居てくれたことに、とても安心している。これまでは良好な関係とまでは行かないかも知れないが、それなりに先輩後輩の関係をして来た。それが崩れなくて良かったと。

 そんな風に、あれこれと悩んだり葛藤している私の頭の中など知るはずもないレギュラス・ブラックは、先程までの驚いた表情とは打って変わって頬を緩めた。嬉しいです、という言葉と共に。


「嬉しい?なんで、だって私、はっきりと返事なんてしていないのに」
「もう貰ったも同然ですよ。僕のこと、眠れないほど考えてくれていたのでしょう?」
「そ、れは…そうじゃない…とは、言えないけれど…」


 いや待て。なぜずっと考えていたことが、イコール彼に応えた、ということになるのだろう。もごもごと答えながらも、はっと我に返る。何か、上手く誘導尋問されている気持ちになった。常々思っていたが、彼は話に乗せるのが上手いと思う。それだけならまだしも、いちいち私が突っかかりたくなるような言葉を選びもしている。周りから見れば“一言多い”と言われるであろう言葉を、平気で使って来るのだ。…まさか、これまでもそうして、わざと私を煽るようなことをして来ていたのだろうか。思い出すのが怖くなり、私は軽く首を振る。

 相変わらず私とは違ってまるで緊張なんてしていない彼は、絶えず笑みを浮かべながら昨日と同じように私の頬に触れた。一瞬、ぴくりと目元が強張る。そんな私を見て、一層彼は唇に弧を描いた。分かってはいたが、なかなかに意地が悪いと思う。私はあんなにも一晩中悩んだと言うのに、それを嬉しいだなんて。私みたいな階級の高い家の人間じゃない生徒と付き合いがあれば、彼が家から何か言われるのではないかとか、そういうことまで考えてしまっていたと言うのに。


「そんな顔になるほど何を考えてくれていたんですか」
「…あなたがそんな風に私のことを思ってくれていたことは嬉しかったの」
「はい」
「けれどどうやって返事をしようかとか、私はあなたのことをどう思っているんだっけとか、そもそも私のどこがよかったのかとか、あなたの家にから何か言われないだろうかとか」
「…はい」
「今日会った時、今まで通り声を掛けてくれるだろうか、とか…」


 自分で言っていて恥ずかしくなる。そのせいでどんどん視線は床へと落ちて行き、私と彼の向かい合った靴の爪先が私の視界の中央を占めた。最後の一言を口にすると、相槌もなくなる。やはり自分勝手だ、都合がよすぎる、と思われただろうか。


先輩」
「なによ…」
「それで十分です」


 言葉の意味を分かりかねて、ゆっくりと顔を上げる。何が十分だと言うのだろう。今にもパンクしそうな頭の中、訳もなく泣いてしまいそうになってぐっと堪えるも、視界に飛び込んで来た彼の表情を見ると簡単にそれは緩んでしまった。だって、余りにも優しく微笑んでいるから。まるで氷を溶かして行くみたいに、彼の表情一つで崩れて行ってしまう。

 本当は色んな後悔があって、色んな気持ちがあって、それを自分一人では手に負えなくなってしまって、自分の本心が見えなくなっていた。考えすぎたあまり、一番大切な所が隠れてしまっていた。私がどうしたいのか、何を伝えたいのかなんて考えもせず、どうすればいい、何を言えばいい、そればかりになってしまっていた。

 十分ですよ、ともう一度彼は言う。お陰で一度緩んだ涙腺からは涙が止まらず流れ出す。頬を伝って行くそれを、彼は優しく拭ってくれた。…簡単なことだったのだろうか。どう見られるかなんて後回しにして、ちゃんと自分の本当の気持ちがどこにあるのか、最初から向き合っていれば簡単だったのだろうか。だって本当は嬉しかったのだ。彼に初めて名前を呼ばれた時、何の接点もないのに知ってくれていたこと、どれだけ嫌味や皮肉を言おうと何一つ変わらず接してくれたこと、その裏には私を思ってくれる気持ちがあったこと。何度も彼が言ってくれた“嬉しい”という言葉、そのたった一言を告げれば良かっただけではないのか。


「泣かないで下さい、さすがにどうすればいいか分かりませんから」
「あ…あなたのせいなんだから!」
「でも僕のことで先輩が泣いたり笑ったりしてくれるのは嬉しいです」
「本当に意地悪ね…!」
「違いますよ、先輩」


 小さく首を振って否定すると、昨日を再現するかのように彼は私の耳元に顔を近付けた。けれど今度は、掴まれたのは手首ではない。身体ごと彼の腕の中にすっぽりと収まる。自分の状況を理解するのには時間を要した。一瞬、何が起こったか分からず何度も目をぱちぱちさせる。やがて、服越しに伝わって来る彼の体温と、頬に触れる彼の髪で、ゆっくりと理解し始める。今、私は彼に抱き締められているのだと。


「僕に振り回されてくれる先輩がどうしようもなく愛しいだけです」


 とんでもない告白を受ける。薄々感づいてはいたものの、やはりすごい後輩に目を付けられてしまったらしい。言葉の物騒さとは裏腹に髪や頬を撫でる手は優しく、私の方が一つ年上なのについ甘えてしまいたくなる。これまでの嫌味や皮肉を発していた自分からは考えられないけれど、そんな風に彼が受け止めてくれるなら、寄り掛かりたくなってしまう。

 今、私はどうしたいか――そんなこと決まっている。緊張しながら、躊躇いながら、私は両手を彼の背に回した。やっと辿り着いた自分の本心に従って。










Fin.

(2011/10/24)