私はまだ、ひたすらに困っていた。先日はとうとう同じ寮のお姉様方に呼び出され、「さん、彼とどういう関係なの?」というようなことを聞かれてしまったのである(それはもう、私でも知るような家のお嬢様たちで、スリザリンの先輩ということで何度か挨拶くらいはしたことはあった訳だが)。私は彼女らの質問に「何もありません、本当に、何もありません、私みたいな一般庶民がまさか」とただ自分の家の平凡さを語り尽くすしかなかったのだ。そうすれば少々憐れんだような目で「あ、ああ、そう、ごめんなさいね…」と謝って静かに彼女らは去って行った。…実は良い人たちなのかも知れない。

 そういう訳で、その件に関しては事なきを得たのだが、相も変わらずレギュラス・ブラックの半ば付き纏いのような接触は続いている。しかしその接触の仕方というのが問題で、以前に増して問題味を帯びて来ているのだ。最早、朝食では私より僅かに後に来て隣に来ることは当たり前と化していた。図書館であれば、それほどまでに私たちの会話に聴き耳を立てている人はいなかった。それは私が元より人の少ない場所を好んでいたこともあるが。…とにかく、大広間では嫌でも周りにスリザリン生がいる。こちらをあまり見ないようにしつつ、しっかりと私とレギュラス・ブラックが何を話しているのか聞いているのだ。興味がある、という視線だけは隠せない。


先輩、この間はありがとうございました」


 そういう、唐突な会話を始めるから周りが興味を持ってしまうのだ。私は、既に毎朝の出来事となってしまったレギュラス・ブラックの登場に、少しだけ振り向くと、また自分のお皿の中に目線を戻す。

 この間――彼が言っているのは恐らく、先日彼の課題に関して口出しをしたことだろう。あれもそう、私が図書館で読書をしていた時だ。課題があるのだと彼は私の隣で教科書やら羊皮紙を広げていたのだが、ちらりと見ればどうしても気になる所があり、口を挟んでしまったのである。彼のことだから要らないお節介だったかと後悔したのだが、予想に反して感謝をされてしまい、益々、何と言えばいいのだろうか、これはもう接触と言うよりも懐くと言った方が正しい域にまで達してしまった。


「…別に、あなたにお礼を言われるほどのことじゃないけれど」
「いいえ、助かりました。さすが先輩ですね」


 優秀なことで有名な彼に言われても嬉しくない、寧ろ嫌味だ。しかし隣に座った彼を見てみればそう言った気持ちは微塵にもないらしく、ただ微笑んでいる。本心からの言葉なのだと思うと、本当に嫌味でしかない返事をした私の心が痛んだ。加えて、周りの視線が益々痛くなる。レギュラス・ブラックと反対隣にいるは何がおかしいのか、口を押さえて必死で笑いを堪えている。震えている身体を肘で小突いてやれば噎せ込んだ。


「げほ…っ、あのねブラック、この子かなりアレだからあまり遠回しにしてても気付かないわよ」
「良いんです、それが楽しいので」
「ちょっと、何の話よ」


 私を挟んで話を進めるとレギュラス・ブラック。何の事か見当もつかず、私はを見る。しかし意味ありげな笑みを浮かべるだけで何も答えてはくれない。仕方なく溜め息をついて目の前のコップを手に取り、水を流し込む。すうっと身体の中から冷えて行く気がして、少し頭もすっきりする。もういい、そんなことよりも授業だ。ごちそうさまでした、と手を合わせて席を立つ。一刻も早く大広間から抜け出したかった。食事も一日の楽しみの一つだったはずなのに、今や居心地が悪くて仕方がない。

 その原因となっている後輩の後ろを通って広間を出ようとした。何事もなかったかのように通り過ぎようとしたのに、彼は私の手首を掴んで引き止めた。何、と聞くより早く、口を三日月の形に歪めて彼は言う。


「また放課後、図書館で会いましょう」


 だから、なぜ最初から私に拒否権はないのだろうか。




***




 しかし、レギュラス・ブラックの言った通り図書館へ来る私も私なのである。扉の前に立ったまま、しかしなかなか扉に手を掛けることのできない私は、今朝の彼との会話を思い出していた。あんな勝手に取り付けられた口約束なんて無視すれば良い。それなのに、なぜか無視することができない。…今朝、彼に掴まれた手首をもう一方の手でぎゅっと握る。


(触られたのは、初めてだ)


 そう、だから少しびっくりしているだけ。何が起きたのだと、何があったのだと自分の頭が受け入れるのに少し時間がかかっただけ。それがたとえ朝から今の今まで続いたのもそう、驚きが大きかったからなのだ。それ以上でもそれ以下でもない、いや、あってはならない。

 強くもなく、かといって弱い訳でもない力で引きとめられたこと、その時の彼の少し意地悪をするような表情、なのに他では聞かないような柔らかいトーンで発せられた言葉。あの瞬間だけ切り取られたみたいに、何度も何度も頭の中で繰り返される。その度に何でもないのだと、誰にでもする事ではないかと言い聞かせるも、驚きと共にどきりとしたのも事実。背中を汗が伝った。ただどきりとした訳ではない、何か、いつもと違う感覚だった。例えば授業中に先生に当てられた時のような感じではなく、もっと、もっと緊張の走るものだ。


(あ、レギュラス・ブラック…)


 少し視線を巡らせれば、いつも座っている席に彼がいた。すると、彼の方へ一人の女子生徒が近付いて行く。彼と同級生のスリザリン生だ。ともよく話題に上がった可愛らしい子である。二言、三言か話したものの、すぐにレギュラス・ブラックの方が立ち上がり、すたすたとどこかへ消えてしまう。残された彼女は何かショックを受けたようで悲しそうな顔をし、図書館の出入り口――つまりは私のいる方へ歩いて来る。会話など全く聞こえなかったため何を話しているかは分からなかったが、何となく分かってしまった気がした。ああ、なんだか嫌な予感がするな、と思っていれば、案の定、すれ違いざまその子は私を見て元々大きな目を更に大きく見開き、きっと睨んで図書館を出て行ったのだ。

 怖かった、という思いも当然あったけれど、可愛い子は睨んでも可愛いな、なんて不謹慎もいい所なことを私は考えていた。…そんなことよりレギュラス・ブラックだ。彼の消えて行った方の書棚へ足を向ける。一応、拘束力のない口約束でもしてしまったものは仕方がない。気乗りがせずゆっくりゆっくりと歩いて彼を探していれば、案外早く見つかってしまった。


「…今日は早いのね、それとも私が遅かった?」
先輩、それでは待ち合わせみたいですよ」
「みたい、じゃなくて半分以上そんなものでしょう」
「先輩がそんな風に思ってくれているなんて思いませんでした」


 どの口が言うんだか。私は顔を引き攣らせる。そんな顔しないで下さい、と言ったかと思えば、あろうことか私の頬に右手で触れる。私なんかより大きな手のひらに包まれた頬は、左側だけでなく顔中が急激に熱を持つ。リンゴのように真っ赤になっているであろうことは容易に想像できてしまった。


「な、に……」
「僕の考えていることが読めなくて困っている先輩を見てるのも楽しかったんですけど」
「は、」
「さすがにそろそろ先へ進みたいと思うんですよね」


 もう秋も良い頃だと言うのに、暑くて汗が噴き出そうだった。口の中はからからに渇いて、目の前の後輩の言葉に返事をするどころじゃない。何度か口をぱくぱくと動かしてみるものの、声は伴わず、また何を言って良いのかも分からない。分からないことだらけなのだ、彼が接触し始めてから。自分がどう振る舞って良いのかも分からない、どんな態度で、どんな言葉で接すれば良いのかも分からない。だって、彼の思惑が見えないのだ。


「分かりたくないですか?」


 分かりたくない。それだ。行く先々に彼がいること、声を掛けて来ること、笑いかけて来ること、触れて来ること、その根底にある理由、彼の気持ち、或いは思惑を、私はきっと分かりたくなかったし知りたくなかった。世界が違う、興味なんてない、他人のままで良い、ずっとそう思って生きて来たことは間違いない。間違いなかったのに、それを揺るがそうとしているのは彼だ。

 輪郭を確かめるように指先が頬をなぞって行く。顎まで到達すると、惜しそうにゆっくりと彼の手が離れて行く。それでもまだ熱の引かない顔を、私は隠すこともできない。かといって逸らすことも背けることもできず、真正面から彼と向き合うばかり。小さく笑みを浮かべる彼は、困惑する私を見て酷く楽しそうにしている。一歩、彼が私に近寄れば、びくりと跳ねる肩。すると一層楽しそうにするが、私は全く楽しくない。何が起こったのか、何が起きているのか、何をしようとしているのか、それを考えるだけでいっぱいだ。それでさえ答えは出ず、足はまるで動かないためここから逃げ出すこともできない。

 レギュラス・ブラックは再度右手を上げると、私の耳元の髪を避けて顔を近付ける。さすがに私も後ずさったのだが、左手で手首を掴み引き止められてしまえば、ようやく動いた足もすぐに止まってしまう。馬鹿にしたのか何なのか、彼が笑った瞬間に吐息が耳に掛かり、背筋がぞくりとする。訳の分からない初めての感覚に、怖くなった私はぎゅっと目を瞑る。けれどそんなこと知る由もない彼は、そのまま言葉を繋げた。


「先輩、僕のものになって下さい」


 今度こそ、身体が固まる。動けなくなる。彼の唇から発せられたその言葉は、何てことのない簡単な言葉。それなのに、何度自分の中で繰り返してもその意味を理解することができない。思考が停止したかのように、いや、拒絶反応を示したかのように受け入れることができない。ただ、すっと身体を引いた彼は、目が逸らすことができないほど綺麗に、そしてあやしい笑みをその顔に浮かべていた。










 

(2011/10/23)