同じ寮とはいえ、学年が違えば目立たず地味な私が彼と接点などあるはずがなく、一切関わることなく数年を過ごして来た。

 正直な話、私――は誰が見ても「なんであなたがスリザリン?」というような生徒なのである。暗いと言えば暗い。けれどそれはこの寮生独特の陰湿さというよりも、寧ろ根暗だとか、ネガティブだとか、そういう意味で暗いのだ。元々日本人ということもあって内気で積極的にはなれなかったことも、友人が少なかったり、「あいつは暗い」なんて入学早々広まった理由の一つではあるが。そして別段、狡賢い頭を持っている訳ではなく、成績は普通だろうが如何せん要領が悪い。しかし、周りの色々な真偽のほどは確かではない噂話は一通り耳に入れる程度には情報には敏感だったため、話題になっていることに遅れると言うことはない。…そう、勿論、彼のことも。


先輩、レポートですか?」
「ええ、そうだけど…あなたは?」
「借りていた本の返却日だったので」


 そう答える彼の手には、もう本は一冊もない。にも拘らず、私の隣の空席にちゃっかり腰掛ける。…ここ最近、二週間ほどだろうか、私はよく彼に絡まれる。それは突然だった。彼が入学して以来、極稀に視線が合うことはあれど、挨拶の一つもしたことがなかったと言うのに、突然図書館で声を掛けられたのだ。さも当たり前のように名前を呼ばれた時には驚いた。私のことなど顔は認知していても名前なんて絶対に知られていないと思ったのに。このまま何の接点もないまま卒業するものだと、そう思っていたのに。


「難しいですか?」
「普通に勉強していたらそうでもないんじゃないかしら」
「来年が心配ですね」
「嘘ばっかり言わないで。あなたが優秀なことくらい知っているんだから」


 何を考えているのか分からない、年齢不相応なほどの笑みを浮かべて話しかけて来る後輩――レギュラス・ブラックの名前を知らない生徒はいないだろう。それは本当に突然だったのだ。いくらでも席は空いていると言うのに、「ここ良いですか、先輩」なんて言いながら今みたいに返事を聞く前に座ったのは二週間ほど前。わざわざ読書をしている私の隣を選んで、何を話すでもなく私と同じく読書をし始めた。どうしても集中することができず、ものの十五分で私は切り上げたのだが、席を立つその際にも「また明日会いましょう、先輩」と有無を言わさない挨拶をされたのは余りにも印象的過ぎた。あの言葉は脅迫が込められていたのだと、今でも信じて止まない。

 以来、考えの読めないレギュラス・ブラック相手に私はどう接すれば良いか分からず、迷っている間に今のような刺々しい言葉しかこの口からは出て来なくなってしまった。私は、困っているのだ。この後輩の思惑が見えず、何を求められているのか分からない以上、どう接すればいいのか分からない。しかしそれでもレギュラス・ブラックは気を悪くした様子は全く見せない。嫌味ともとれる私の発言にすら、一つも態度を変えることなく私に近寄って来る毎日。


「本当ですか?」
「何が?」
先輩が僕のことを知ってくれているなんて嬉しいですね」


 あなたのことを知らない生徒はいないと思うけれど。そう言おうとして口を閉じる。余りにも彼が嬉しそうににっこりと笑っていたからだ。いつもの澄ましたような表情でも、馬鹿にするような嘲笑でもない。ただ、私の発言のどこにそこまで喜ぶ要素があったのか甚だ謎である。

 情報に疎くはないけれど、さして名家でも良家でもないただ長く続いているだけの家出身の私に、今の貴族社会だとかそういうものは良く分からないけれど、はっきり言ってレギュラス・ブラックが私にどれだけ近付いて来ようと何のメリットもない。寧ろここ最近の私にとっては多少デメリットがある。どこからかの視線がちくりちくりと痛むのだ。それらは主に女子生徒からのものなのだが、間違いなくレギュラス・ブラックに近付きたい家柄目当てのお嬢様が大半を占めている。どうせならそういうお嬢様方との付き合いを大切にした方が良いだろうに、なぜ私なのだ。


「これ、読んでいいですか?」
「良いけれど、私の教科書よ?」
「分かってます」


 いやいや、分かってないだろう。そんなもの読んで何になるのだろうか。確かに来年彼も手にする教科書ではあるし、彼が優秀な生徒であることは十分分かっている。もしかしたら今の学年の勉強なんて余裕で理解しちゃって暇だ、なんてことも有り得ないことではない。このレギュラス・ブラックであれば。けれど、それならわざわざ私の教科書など読まなくてもここは図書館、もっと上の勉強をしたいなら書棚を探せばいいだろう。

 彼と居ると疑問ばかりが浮かぶ。なぜ私に声を掛けるのか。なぜいつも隣に座りに来るのか。なぜ私の冷たい言動に嫌な顔一つしないのか。分からない、この後輩の考えていることが一つも分からない。…つい、レポートを書く手を止めて、口元を緩めながら教科書を捲る横顔を見る。ああ、睫毛長いなあとか、日本人とはまたちょっと違った黒髪なんだよなあとか、綺麗な目鼻立ちしてるなあとか、指も長くて綺麗だなあとか、


(……って、なんで誉め言葉ばかり浮かんで来るの!)


 二、三度頭を横に振って羊皮紙に向き直る。…そりゃあ、何と言っても彼は西洋人だ。日本人の私から見ればやはり見惚れるような容姿を彼はしている。それは違えようのない事実。けれど、いや、だからこそ尚更、彼が私の隣で今まさに私の教科書を読んでいる理由が見当たらない。私の知っている貴族というのは、家へのメリット・デメリットを考えて人付き合いをするものなのだが、ここでは違うのだろうか。いや、ここでというよりも、彼は。だとすれば、なんともおかしな話なのである。


先輩」
「今度は何?」
「あんまりこっちを見ないで下さい」


 やっぱり彼が分からない。




***




 大広間で会ったら挨拶をされたり、図書館に居れば声を掛けられ隣に座って来たり、寮に戻ろうと思えば「じゃあ僕も戻ります」と並んで廊下を歩いたり。…ごめんなさい、訳が分からない。


「訳が、分からない、ですって?」
「ちょ、ちょっと怖いわよ…」
「私にはの方が怖いわよ!」


 最近、行く先々におけるレギュラス・ブラックの出没率の高さにいい加減困り果てていた私。そこへ丁度、同室のから「最近ブラックとどうなのよ」と声を掛けてくれたので、冒頭の通り相談してみた。しかし彼女から予想だにしなかった反応が返って来たため、私はますます困惑した。今にも彼女のその右手が私の顔を叩きたそうに震えている。


、あなたからブラックに声を掛けたことは?」
「ないに決まってるじゃない」
「あなた馬鹿?」
「は?」


 訳の分からない質問をされた挙げ句、罵倒の言葉。これ以上私を困惑させないでくれと思いつつ、「あー」とか「うー」とか唸りながら、なんとか私に分かるようにここの所のかの後輩の行動を説明しようとしてくれているらしい友人を待つ。ひたすら待つ。

 そう、昨日も昨日ですごかった。これまでは大広間で会ったって、まだ「おはようございます」と言われる程度だった。それより前は会釈、更にその前は完全に視線すら合わなかった。それなのに、昨日はあろうことか図書館であったかの如く、大広間で「おはようございます先輩、隣いいですか?」と言いながら、空いてる私の右隣に座ったのである。これに驚いたのは何も私だけではない、周囲のスリザリン生の多くが動きを止めたのである。


「ブラックも大変ねえ」
「大変なのは私の方よ…」
「馬鹿仰い、この学校でブラックに笑顔で話し掛けられる生徒なんてくらいなのよ」
「私がそれを嬉しいと思うかどうかは関係ないのね…」


 この世の中には住む世界というものがある。例えば、私とレギュラス・ブラックでは住む世界が違うのだ。熱心に彼と近付きたいと思っている人間であればそれを嘆くのだろうが、生憎私は違う。なぜなら家柄には何の興味もないからだ。彼が入学してからも、ずっと私が一方的に彼を知っているだけ。それ以上でもそれ以下でもないし、そこから関係性を発展をさせようなんて気も更々なかった。こういう所がスリザリン生らしくないと言われる所以なのだろう。それを思えば、スリザリン生を絵に描いたような彼が、今になって事あるごとに私に声を掛ける理由が益々分からなくなってしまった。


「一度から声掛けてみなさいよ」
「なんで私が」
「あんな風に笑うブラック、見たことないもの」
「私のプラスにはならないじゃない」
「…ってスリザリン生らしくないと思ったけれど、そう言う所はスリザリン生らしいわ、とても」
「それはどうも」


 最初に損得を考えてしまう、ということだろうか。あまり嬉しくはないが。ともあれ、あまりにもが五月蠅く言うので、結局次に図書館なり大広間なりで会った時には、私から声を掛けることになった。けれどよく考えてみると、どこへ行っても私が彼を見つけるのではなく、彼に私が見つかっているのだ。それでは自分からも何もないではないか。…しかし二度も馬鹿と言いつつ、最後まで話を聞いてくれた友人のため、そこまでは言わないでおく。ただ、「また報告聞かせてね」と口の片端を持ち上げて笑う彼女には、曖昧な返事をしておいた。

 そして早速、放課後になると私は図書館に向かった。いつも狙ったかのように行く先々にレギュラス・ブラックは現れるため、今日も図書館へ行けば恐らく現れるのだろう。それが嫌だとか良いとかいうわけではなく、事実としてそう判断しただけだ。彼も大概暇なのだろうか。いや、だからと言って何も彼と会話をするために図書館へ行く訳ではない。いわば私の日課のようなものだ。課題やレポートがあるにしろないにしろ、大抵放課後は図書館で過ごしている。寮よりも図書館特有の本の香りに囲まれている方が落ち着くのだ。


(ああ、なんだかとっても言い訳がましいわ…)


 の言葉が引っ掛かってることは否定のしようがない事実だった。…何度も彼女の言葉を頭の中で繰り返しながら、書棚をあちこちうろうろする。気に入っている作家の小説が置いてある書棚へ足を向けると、そこには件のレギュラス・ブラックがいた。真剣な顔をしてじっと並んでいる本を眺めているが、なかなか決めかねているようだ。丁度その列は私も見ようと思っていた列で、目当ての作家の本が並んでいる。彼も同じ作家が好きなのだろうか。だとすれば、会話に困らない訳ではない。困らない訳ではない、のだが。


(だって、おかしくない?)


 これまでそんな話を一度もしたことない私が、いきなり「あなたもこの作家が好きなの?」なんて、おかしくはないだろうか。明らかに不自然だろう。話し掛ければ嫌味か冷たい返事しかしない私が、そんな友好的な会話など、違和感丸出しなのである。…そんなことを一人もやもやと悩んでいれば、私の姿に気付いた彼は、たちまちいつもの笑顔で「先輩、こんにちは」と挨拶して来たのである。、ごめんなさい、失敗だわ――そう思いながらも、彼の立っている傍にまで足を向ける。


「今日は課題はないんですか?」
「ええ、だから何か読もうと思って。…あ、あなたもこの作家が好きなの?」
「僕ですか?」


 一度、ふいっと並んでいる本に目を向け、けれどすぐに私の方を向く。思えば、入学して来た頃はまだ私と変わらないくらいの身長だったのに、いつの間にか私よりずっと高くなっている彼。今はこうして話しているけれど、いずれ目線がずれて行くように関係も離れて行くのだ。きっと彼は、私なんかの手では届かないほどに遠くへ。それは私よりも彼の方が分かっているはずだ。付き合いがあっても家にとっては何の得にもならないのだから、言っても卒業までなのだと。そんな私に声を掛けて、話し掛けて、笑い掛けて、一体彼に何の得があるというのだ。むしろ、こうして私と話している暇があれば、もっと有益な付き合いをすればいいのに、とすら思う。私は、周りが思うよりもずっとドライだ。ドライと言えばまだ響きは良いが、ただの薄情なのである。

 それなのに、まだこの後輩は私の顔を覗き込んで緩く笑う。


先輩が読んでいたので、気になったんですよ」












(2011/10/22)