眠るあなたにキスをする。


 談話室の一人掛けソファにもたれ、うたた寝している生徒が一人。遠目にも分かった整った顔立ちは、間違えるはずもないシリウスのものだった。読書か課題か、直前まで開いていたらしい本が彼の足元に落ちている。近寄って手に取ってみると、失礼だがとても彼の趣味とは思えない物語の本が落ちていた。決して分厚い訳ではないその本は、私も覚えてしまうほどに繰り返し読んだもの。

「シリウス、」

 呼び掛けても目覚めない。僅かに開かれた唇からは、ただ規則正しい寝息が聞こえるだけ。まるでぴくりともしない彼を数分見つめた後、私はそっと手を伸ばし、彼の顔に影を作る前髪を避けた。けれど傾いた体のため、すぐにまた元通り前髪は額を隠す。

 無心だった。何を考えた訳じゃない。寧ろ何も考えていなかった。確かに彼はたくさん女の子が夢中になるほどの魅力を持っていると思う。けれど彼に恋心を抱く女の子からの好意を持て余すその姿は、いつからか私を深く絶望させていたのだ。睨むように見下ろした顔は、それでも端正で非の打ち所がない。

「シリウス…」

 二度目、名前を呼ぶ。今度こそ聞こえないことは分かっていた。一人ごちるかのような小さな声で言ったのだから。その時、ほんの少し彼の眉間に皺が寄る。しまった、と思わず身を引きそうになるが、それ以降はまた身じろぎ一つせず眠り続ける。

 もしも。もしも今私が彼にキスをしたら、彼は目を覚ますのだろうか。私の拾い上げた物語の中に出て来る男の人のように、キス一つで目を覚ますのだろうか。…右手で本を抱きしめると、もう片手をソファの肘置きに付け、身を屈めた。

 臆病な私は、彼の額にキスをした。










(2010/11/10)