愛することは許すことに似ている





 しがないドラッグストア店員の私にも、ほんの少し、春の気配がして来た。定期的にやって来る一人のお客さんが気になるのだ。この近くに住んでいるらしく、洗剤やティッシュなど、生活用品ばかり。若いのにいつもちょっとくたびれているけれど、お会計の時には「ありがとう」と最後に笑って言ってくれる所にときめいてしまった。それ以来、彼の来店を心待ちにしている私がいる。
 とはいえ、私と彼にお会計の時以外の接点はない。「いらっしゃいませ」「お待たせいたしました」「ありがとうございました」これくらいしか話したことはないのだ。しかも業務上の会話であって、個人的な話など、まさか。しかも、彼が来店する規則性はなく、私が出勤の日に彼が来るとは限らないのだ。ドラッグストアなんてそう毎日来るような場所でもない。
 そうして、今日も私の勤務時間が終わろうとしていた。切れかけの薬があると言うことで、他の店員に陳列を任された私は薬のずらりと並んだ棚の前で仕事をしている。もう夜も大概な時間だが駆け込みの客などおらず、狭い店内には今、私ともう一人の店員しかいない。

「いらっしゃいませー」

 店員の一人が、お店のドアが開いたことに気付き、そう声をかける。ふとそちらを見ると、こんな時間にあの彼が来たのだ。私の心臓は一瞬、跳ね上がる。いつもはもう少し早い時間に来るのだが、もしかしてこれまでもこれくらいの時間に来ることはあったのだろうか。
 彼の姿をみとめた途端、私は仕事の手が上手く動かなくなった。籠の中にある薬を棚に並べるだけだ。しかもその位置などとうに把握している。にも拘らず、手に取った薬をどこに陳列すればいいのか分からなくなっている。もしも彼が薬を買っていくとしたら、私の近くを通る。挨拶くらいならできるだろうか。

「すみません」
「はっはいっ!」

 あろうことか、声を掛けられた。手に持っていた風邪薬をぼとりと床に落とす。慌てて拾ったが、恥ずかしさで爆発しそうだ。穴があったら入りたい。

「胃薬を探しているのですが…」
「胃薬…は、ここです!」
「ありがとうございます」

 ふわりと微笑んだ彼に、また胸がどきどきと高鳴った。私が陳列していた風邪薬の隣の棚へ手を伸ばす彼。どうやら今日はいつもに増してくたびれている。外での仕事なのだろうか、服もところどころ汚れている。顔にも泥の跡がついているのを見付けた。胃の調子が悪くてそんなにも疲れた様子なのだろうか。むしろ彼には栄養ドリンクを勧めたいくらいだ。
 無礼と思いながらも気になってちらちらと見ていると、当然、視線を感じたらしい彼は私の方を向く。すみません、と慌てて言って籠の中からまたいくつか風邪薬を手に取る。

「ミス・
「えっ!?」
「あ、すみません、名札を見たので…」
「え、え、あ、ああ…!」

 突然名前を呼ばれ、驚いた。そのはずみで、また手にしていた風邪薬を二、三箱ぼとぼとと落とす。今度は彼も拾うのを手伝ってくれる。これ以上彼の前で仕事をしようとしても恥をかくだけではないだろうか。
 薬を受け取りながら顔を上げると、真正面にある彼の顔を見て驚いた。私が見つめていた方と反対の頬には、ざっくりと何かで切った痕があるのだ。さーっと血の気の引くのを感じる。「ひ…っ!」と思わず小さな悲鳴をあげると、彼は困ったように笑った。「すみません、怖がらせるつもりはなかったのですが」「いや、怖がるとかじゃなくて…!」あなた、胃薬なんて買ってる場合じゃないでしょう―――そう思わず説教しそうになってしまう口を閉じる。

「危ないお仕事でもされてるんですか?」
「あー…いや…ちょっと用心棒みたいなものを」
「い、いえ、そんな正直に答えてもらわなくても……えっ?」
「うん」

 この時代になっても、用心棒とは顔に傷を負うほど危険な仕事なのか。お偉方の身辺事情など知らない私には、用心棒がいまいち想像できない。もしかして彼は、何か特別な訓練を受けた警察だとか、軍人だとか、そういう特殊な仕事をしている人間だったりするのだろうか。

「傷薬とかは…」
「ああ、それは家にあるから大丈夫ですよ」
「そうですか」

 職場で手当の一つもできなかったのだろうか。そんな大きな傷、早くちゃんと手当をしないと痕が残ってしまう。せっかく綺麗な顔をしているのに勿体ない。痛そう、と小さく呟くと、また彼は苦笑した。
 初めてこうしてお会計以外で話したけれど、彼は随分と悲しそうに笑う。いや、普通に笑うような会話ではないのだが、もうそんな表情の方が普通であるように笑うのだ。それに気付いて、ずきんと胸が痛んだ。それは後を引いて、ずきずきと小さな痛みが持続する。
 この人、かなり苦労してる人なのではないだろうか。直感だけれどそう思う。用心棒と言われるとハードなイメージしかないし、それにこの怪我にくたびれ方だ。ずっとそんな生活をしていたら、そりゃあ疲れもするだろう。けれどそれ以上に何か、理由があるような、そんな気がした。こんなにも人当たりが良さそうな人に悲しそうな顔をさせる何かが。

「はい」
「…ありがとうございます」

 風邪薬の最後の一つを渡され、とん、と指先が僅かに触れる。その指もまた汚れていて、傷だらけだ。
 この手を優しく包んでくれる人はいるのだろうか。温めてくれる人は、抱き締めてくれる人は、受け止めてくれる人はいるのだろうか。大変な仕事が終わって家に帰ったら、「おかえり」と言ってくれる人はいるのだろうか。待っていてくれる誰かがいないのは、こんな何でもない平凡な仕事をしている私だって寂しいのに、彼みたいに苦労している人なら尚更ではないのか。誰かが家で待っていてくれるなら、それだけで救われることもあるのに。
 何となくタイミングを外して、まだお互いにしゃがみ込んだまま。心配になった私は、渡された風邪薬の箱から彼に視線を移した。その目は確かに優しくて、濁りも汚れもない。こんなにも澄んだ目の人が危険な仕事をするのは、なぜなのだろう。

「心配しないで下さい。僕、結構丈夫なんです」
「あんまり、説得力ないですけど…」

 もし、いないのなら。誰も待っていないのなら。その手を握る人も、その傷を手当する人もいないのなら。

(私なら、いくらでもするのに……)

 単に私の欲が出たと言われればそれまでだ。だって、彼の名前も何も知らないのだ。仕事は用心棒なんて言われたけれど、それは誤魔化されただけ。そんな言葉で済ませられるほどの仕事じゃないことは想像できる。きっと、彼は自分のことを多くは語りたくない人だ。出会ったばかりの、自分のことをよく知らない人間には踏み込まれたくない部類の人間だ。きっと、掠める以上は触れられたくない人間なのだ。
 つい、傷口に手を伸ばしそうになってぐっと手を握り締める。

「…っと、いつまでも話し込んでいてはあなたが帰れませんね」
「あ…閉店時間…」

 彼は「ありがとうございます」と言って立ち上がると、吟味していたはずなのに適当な胃薬を手にして会計に向かう。そして彼が店を出て行き、閉店作業に取り掛かった。お店のシャッターを下ろすと、もう一人の店員は挨拶もそこそこに車らしくさっさと駐車場へ行ってしまった。あまり、あの人とは相性が良くない。
 私は私で、駐輪場へ向かう。その間も、ぼうっとさっきまでの出来事を思い返していた。初めて喋ったあの彼は、想像通り穏やかな人だったけれど、予想外に色んな事を抱えていそうな人だったのだ。また次に会った時、普通に接客ができるだろうか。情けない顔で彼を見たら、また悲しそうな顔をされてしまうに違いない。…自転車の鍵を鞄から出しながら、私はため息をついた。

「ため息は幸せが逃げちゃいますよ」

 聞き覚えのある声に驚いて顔を上げると、今度は自転車の鍵を地面に落とした。私は、驚く度に物を落とさないと気が済まないらしい。

「どうして…」
「お礼を言いたかったんです」
「お礼?」
「この傷、心配してくれてありがとうございます」

 なぜそんなことを言うのか。そんな目立つ怪我をしていれば心配するのは当然ではないか。目を丸くする私をおかしそうに笑っているが、笑い事ではない。まるで、これまでそんな怪我をしても心配されたことがないみたいではないか。職場でいじめでも受けているのか、彼は。同僚や先輩などにも心配されないと言うのか。ますます、彼の生活が心配になる。私はただ、彼の行きつけのドラッグストアの店員で、そこまで踏み込む資格も何もない。だけど、そこまでちらちらと内側を小出しに見せられれば、全てを知りたくなってしまう。私が知る彼はごくごく一部だ。それ以外を、彼の正体を知りたくなってしまう。
 けれど、それも彼の一言で全て打ち砕かれる。

「でも、大丈夫ですから」

 あ、と思った。これは、牽制なのだと。近付くな、踏み込むな、触れるなという、様々な意味を含んだ拒絶だ。穏やかな微笑みを浮かべ、安心させるような言葉を吐きつつ、「これ以上は許さない」というただの拒絶に過ぎなかった。
 今度は、違う意味でどきんどきんと心臓が鼓動を打つ。冷や汗が背中を伝って、唇が震えた。何か言おうとしても、言葉が出て来ない。笑いながらも彼の眼は、酷く冷たかった。人一人、硬直させてしまうことなど彼には容易いらしい。凍ったように動かなくなった私の傍を、彼は通り過ぎて行く。
 完全に足音が聞こえなくなってから、私は一人で泣いた。彼はああして、これからも近付く人間を全て排除して行くのだろうか。一人で生きて行こうとするのだろうか。誰も愛することなく、人との付き合いなんて表面上だけで、深く関わる人間を作らず、ひっそりと生き、最期を迎えたいのだろうか。そう思うと、涙が溢れて止まらなかった。そんな人生を送らなければならない理由は、いや、そな道を彼が選ばなければならなかった理由はどこにあるのだろうか。そんな人、いて良いはずがないのだ。誰とも寄り添えず一人で生きなければならないなんて、そんなのおかしい。
 けれど、今更彼を追いかけても、あの彼の冷たい目を弾き返せるほど説得力のある言葉も浮かんでくれず、追いかけることなどできなかった。ただ、「こんなのはおかしい」というぼんやりとした否定しか出て来なくて、彼を説得できる気がしなかった。

「わ…ったし、なら…っ!」

 私なら、どんな事情も受け止められるのに。…でも、それを証明できるものは何もない。きっと彼は、人の気持ちを信じられないのだ。「この人なら」と信じて、けれど裏切られた経験があるのかも知れない。そうでなければ、あんな別れ方はしないはずだ。あんな拒絶を、しないはずなのだ。
 どれだけ私が彼を思ってみても、もう彼に届くことはない。淡い思いを抱いていた彼の名前すら、結局知ることもなく終わってしまった。或いは、始まることも許されなかったと言えば良いのか。
 それ以来、彼はこのドラッグストアに来ることはなかった。私のいない時間を選んでいるだけなのか、通うドラッグストアを変えたのか、引っ越したのか、はたまた―――……。けれど、彼の行方どころか安否さえ、私は永遠に知ることはないのだと知り、それに気付いた瞬間、もう一度泣いた。もしもう一度現れてくれたとしても、あの冷たい目も拒絶の言葉も忘れて、全てを許して、私なら彼を受け止めるのに、と。








(2013/04/30 title 野薔薇