冷えた紅茶を飲みほして





 年中住み心地の悪い街に、私は住んでいる。気候が悪ければ治安も悪い、つまり住んでいる人間も碌な奴が居ない。なぜそんな土地に私が住んでいるのかと言えば、ただ一つ、お金がないからだった。こういう環境の悪い所は、だからこそ破格の値段のアパートばかりなのだ。貧乏を絵に描いたような私は、妥協に妥協を重ね、ここに着地した。けれど住めば都とでも言おうか、ホグワーツを卒業して数年、私はここに馴染んでいた。私と同じような事情でこの街に住みつく人間も実は結構いる。隣の部屋のお姉さんは特異体質のため表では生きられず、その向こうには純血であるにも拘らずマグルの女性に恋をして駆け落ちした夫婦が住んでいる(どうやら一族を追われたらしかった)。そして逆の隣にはホグワーツ時代の同級生が住んでいた。当時はあまり接点もなかったのだが、ここへ引っ越して来る日が重なったため知り合いになり、今では時折お茶に招いたり招かれたりしている仲だ。とは言え、教職に就いた彼と会うのは休暇中のみで、本当に時折だ。

「今年の冬は何も予定がないわ」
「今年の冬も、の間違いだろう」
「昨年はあったわ。セブルスと寂しく晩餐したじゃない。でも今年はあまりここにいないのでしょう?」

 休暇中のみ現れる隣人の彼こそ、セブルス・スネイプその人だった。クリスマス休暇ということで先程帰って来たらしいが、何やら必要なものだけを持ってすぐに出て行くらしい。思えば、教師なんて立派な職に就いている彼がここに住み続ける理由が見当たらない。実家だってあるだろうし、もっと良い部屋を借りることだってできるだろう。しかし卒後知り合いになった私がセブルスの生活の事情など知っているはずがなく、簡単に口にできる話題ではなかった。それに彼がここに住み続けようと出て行こうと、彼からすれば“関係ない”の一言に尽きる。セブルスの手土産であるクッキーを一枚手に取り、一口齧ればバニラの味が広がった。無駄のない所作でティーカップを口元へ運ぶセブルスをちらりと見たが、この甘さを思うとまさか彼がこれを食べるとは思えない。しかし私一人で食べろとは、この量、私を太らせる気だろうか。

「甘いわね、これ」
「それでも店で一番甘さを抑えてあるものだ」
「セブルスが食べたら噴き出すと思うわ。それに、甘いものを食べるあなたなんて想像できない」
「些か失礼だとは思わないのか」
「え、だって食べるの?」

 言えば、睨むように眉根を寄せて私を見るセブルス。ティーカップを小さなテーブルに戻して、白いお皿に綺麗に盛られたクッキーに手を伸ばす。いいのかなあ、と思いながら私は私でまだ手に半分残っているクッキーを口に放り込んだ。私は嫌いな甘さではないし美味しく頂けるが、果たして彼はどうだろう。丸いバニラクッキーを咀嚼して、じっと目の前の彼を見つめた。一回、二回、彼がそれを咀嚼する度にどんどん険しい顔になって行くのを見て、私は笑いを堪えるのに必死だ。とうとう飲みこむと、カップの中の紅茶を一気に流し込んだ。

「ふ、ふふ…!だから言ったのに…!怖いもの見たさ、セブルスでもするのね」
「喧しい」
「意外と負けず嫌いだったり。あーあ、良いもの見たなあ」
「その口を永久に塞がれたくなければ無駄口を叩かないことだな」

 図星を突かれたらしい彼は、苛々したように舌打ちをして見せた。甘い甘いバニラクッキーとセブルスのなんてミスマッチなことか。しかし不機嫌な彼を余所に私は更にクッキーに手を伸ばし、今度は一口で食べてしまう。そんな私を見て益々顔を歪め、不愉快さを顕わにするセブルス。段々と面白くなって来て逆に私はにこにこと笑った。暗い部屋に立ち籠る紅茶とバニラクッキーの甘ったるい香りは、きっと彼にとっては癪なものでしかないだろう。彼はいつだって紅茶に砂糖を入れない。私はスティック半分を溶かす。たった半分なのに、一度間違えて入れてしまった時には何か呪いでも掛けられそうな形相で睨まれたことがあるのだ。それでも紅茶を残さず飲んでくれたのは、彼なりの優しさなのだと思う。そしてまた、あんな顔をしつつも残りのクッキーを気にしてくれているようだ。買って来たのは自分だろうに、想像以上の甘さでこれ以上は食べられない、しかし私に全部食べさせるのは、とでも葛藤しているのだろう。

「いいよ」
「何がだ」
「私が貰うし、このクッキーの山」
「食べるというのかね、これを全て」
「数日に分けて」
「………」

 今度は「太るぞ」とでも言いたげな顔をする。けれどせっかく彼がくれたものを誰かにまるごとお裾分け、というのはしたくない。湿気防止呪文でもかけておけばこの部屋でも日持ちはする。それに、食べていればこの甘さも悪くない。彼にとっては二度と出会いたくない甘さかも知れないが、彼が店でこれを選んでいる姿を想像すると益々おかしいし、そんな想像ごと美味しく頂くとしよう。ありがとう、と告げると、彼はまるで石にでもなったかのように固まってしまった。更にもう一枚、クッキーを口に運んでいる間にも、彼はまだ固まっている。しかし何を思ったのか、ふと頬を緩めた。あまりに不意打ちの表情にクッキーを咽る。

「げ…っほ!ごほっ!」
「何をしている…!」

 セブルスは立ち上がり、繰り返し胸を叩いて何とか呼吸困難から脱しようとする私にティーカップを差し出す。すっかり冷たくなった紅茶を一気に飲み下せば、ようやく呼吸が楽になった。しかし小さな咳を繰り返す私の背をまださすってくれるセブルスは、呆れたのか短い溜め息をつく。大丈夫、もう大丈夫だと言いながら顔を上げると、すぐそこにあったのは彼の顔。その距離の近さに身を引いて今度は椅子から転げ落ちそうになる。

「落ち着きのない…」
「す、すみません…」

 彼の腕が私の腰を引き寄せ、反射から私も彼の首にしがみつく格好になった。どくんどくんと大きく拍動する心臓。けれど違う、これはきっと咽たり椅子から落ちそうになったからだ。まだしがみついたまま離れられず、「あはは…」と乾いた笑いを漏らす。セブルスはまた一つ、私の耳元で溜め息をつくものの、この腕を離そうとしない。経緯は分かるけれどこのままでいる理由もない。失ったタイミングを取り戻すことだって彼ならば簡単なはずだ。それなのに逆に一層ぎゅっとしがみついた私の口からは、「行かないで」という言葉が漏れる。

「………」
「な、なんでも、ないわ…」

 そこでようやくゆっくり身体を押し返した。けれど私が手を離すだけでは身体は離れてなどくれない。腰に抵抗を感じながら「セブルス」と呼び掛けてみても返事はなく、代わりに彼は先程の私と同じように更に腕に力を込めた。そして低く私の耳元で囁く。

「理由をお聞かせ願おうか」
「え…」

 耳朶に触れる唇が、冷たい身体に熱を与えて行く。違う、こんなの私とセブルスじゃない――そう思うのに、何を間違ったのか、何が外れたのか、冗談とは思えない事態に発展している気がする。からからに乾いた口の中が水分を欲している。けれど彼の肩越しに見えたテーブルの上のカップには、もう紅茶は残っていない。先程のような冷たいもので良い、いや、寧ろ冷たい方が良い。まずは頭を冷やすために冷え切った紅茶が欲しい。この部屋の寒さではもう冷静にはなれないらしいのだ。私も彼も、まずは冷静さが必要だ。

「行くなと言うなら君も来ればいい」
「何を、」
「君のような落ち着きのない人間を一人にしておくのは不安がある」
「ま、待って、それってまさか」
「いっそ転職した方が監視がしやすい」

 何か物騒な言葉が聞こえた気がしたけれど、その言葉はまるで告白ではないか。外は雨、暗い部屋、白いバニラクッキー、空のカップ。そして今日までただの“時々”隣人な私と彼。ここまで様々なミスマッチが絡み合った状況でそんなことをするのは、世界中どこを探してもこの人しかいないだろう。私は、答えの代わりに再び彼の首に腕を絡めた。










(2011/11/27)