「ねえねえ、それ何の本?」

 優しい春の日差しが差し込む庭の片隅、誰にも邪魔されないこの場所で本を読んでいると、突然声をかけられた。顔を上げても、辺りを見回しても誰もいない。すると再度、「こっちよ、こっち」と少女の声がする。もしや、と思い背後の大きな池をそっと振り向いた。すると、そこには肩まで池に浸かっている少女がいた。金色の長い髪は池の水面にたゆたっている。…春とは言え池の水はまだまだ冷たい。なんということをしているのだ。信じられない気持ちで彼女をじっと見ると、少女はくすくすと花のように笑った。

「私は。この池に住んでる人魚よ。あなたは?」
「セブルス、スネイプ…」
「セブルス……ねえ、何の本を読んでいるの?」

 池に人魚が住んでいるなど聞いたことがない。僕の驚きなどまるで気にしないで、笑みを崩さず彼女は訊ねて来た。薬草学の本、と短く答えると、ぱあっと表情を明るくして上半身を乗り出す。ばしゃん、と池が波立って僕にもその飛沫が少しかかってしまった。慌てて腕の中の本を確認するが、幸い本は無事なようだ。図書館の本だというのに破損してしまったらマダム・ピンスに何を言われるか、考えるだけで恐ろしい。そんな人の気も知らないで、顔を輝かせたままの人魚は更に僕に問い詰める。

「ねえ、薬草学は好き?」
「ま、まあまあ」
「魔法薬学は?」
「好き、だが…」
「じゃあ、人魚を人間にする薬はなあい?」
「は…?」

 そのような薬、聞いたことがない。魔法であれば何でもできると思っているのだろうか、この人魚は。いや、動物もどきなんてものがあるのだ、もしかするとあるかも知れない。ただ、あるとしてそれは間違いなくとても高度な魔法だろう。…勘の働いた僕には、いや勘が悪くとも彼女の発言からこの人魚の思惑は簡単に分かった。わざわざ聞くくらいだ、そういった願望があるに違いない。あまりに馴れ馴れしい人魚にすっかり警戒心の解けてしまった僕は、呆れながら彼女を見た。変わらず、彼女はにこにことしている。

「お前、」
よ」
「…は、人間になりたいのか?」
「ええ、なりたいわ?」

 あっさりと認めたに、ますます全身の力が抜ける。きょとんとしながら首を傾げる。わざわざ確認するのか、とでも言いたげだ。ひょいっと池から上がると、確かに彼女の下半身は魚の尾ひれだった。人魚などと俄かに信じがたい話だったが、実際この目で見れば信じる外ない。魚と同じで寒さは感じないのか、水に濡れた髪は体や四肢に纏わりつくも、ちっとも寒そうな素振りを見せない。腰から上は人間、言葉も通じる、しかしその尾ひれと寒さを感じない所を見て、自分とは違う生き物なのだと認めざるを得ない。何かの悪戯で一時的にこんな姿になっている訳ではないようだ。

 人間になりたいわ。再度、彼女は言った。…あらゆるゴーストがこのホグワーツには住んでいるが、人魚の存在は明るみに出たことがない。噂話が好きな生徒からも、人魚がいるなどと聞いたことがなかった。周囲の噂と言うのは嫌でも耳に入って来るのだが、人魚のにの字も聞いたことがない。その事実が、彼女はひっそりとこの池で生きているのだということを表している気がした。

「この池は退屈よ。生徒どころかゴーストさえ寄りつかないもの。セブルス、あなたが久し振りなのよ」
「…………」
「仲良くなったって、すぐに卒業していなくなっちゃう」
は不老不死なのか?」
「そりゃ、首をちょん切られたりしたら死んじゃうけど…人魚は不老だわ。もう何百年生きてるか自分でも忘れちゃった!」

 老いに恐れを感じて不老や永遠の命を求める人間がいれば、老いを求める人魚がいる。この世とは残酷なものだな、と思った。自分には当たり前のことが、当たり前ではない生き物がいる。半分は人間、半分は魚―――ゆえに、人間と違う時間を生きる彼女には、彼女しか知り得ない孤独というものがあるのだろう。彼女の顔からは先ほどまでの笑みは一切消え、虚ろな目は遠くを映す。その青い目には、これまで一体どんな景色を映してきたのだろうか。私にはこの池だけよ、というような答えが返ってきそうな気がして、訊ねるのは憚られた。

 やがて、尾ひれを翻すと池の中へと華麗に飛び込んだ。陸から十メートルほど泳いだところでようやく頭を出した彼女は、すい、と方向転換してこちらを向く。たった十メートルの差が何百メートルもの距離に感じられるのは、自分との違いを見せつけられたからか。

「読書の邪魔をして悪かったわね」
「いや…」
「私はいつでもここにいるから、気が向いたら遊びに来てよ」

 無理矢理作った笑顔でそんなことを言われても、僕は眉をひそめるしかできなかった。何か声をかけたいが、何を言えばいいかなんて分からない。何の返事もできずにいたが、ふと時計塔を見ればもうすぐ午後の授業が始まる時間。それを察したらしいは、ひらひらと手を振って「遅刻しちゃダメよ」などと言う。結局「また来る」の一言すら言えないまま、僕はその場を去った。



*



 ホグワーツの池に住む人魚に出会ってから一週間。あれ以来、僕は池に行っていない。寂しさに揺れる青い瞳が忘れられずにいたが、次に会った時に何の話をすれば良いか分からなかったのだ。たとえあの池に行った所で、僕には彼女を人間にするだけの力はない。もう何百年も生きて来た彼女は、話しかけた何人もの生徒を見送って来たのだろう。その度に増して行く孤独というものは計り知れない。そして、僕が卒業する時もまた、彼女は“置いて行かれた”と感じるのではないか。それならいっそもうあの池に寄りつかない方がのためになるのではないか。

 この池は退屈よ―――彼女の声が頭に響く。僕には彼女の孤独をどうしてやることもできない。けれど、もし何かできるとしたら彼女の退屈をなくすことくらいだ。僕には何の取り柄もなく、グリフィンドールの奴らには馬鹿にされるばかり。けれど、あの寂しい人魚の退屈をなくすくらいなら、話し相手になるくらいならできるのではないか。誰かがいるだけで和らぐ孤独を、僕も知っている。

 僕は急いであの池に向かった。気が向いたら、なんて嘘だ。本当は毎日来て欲しいのだろう。僕が友人の多い人間だったらそれは無理なことかも知れない。けれど幸か不幸か、僕はそうではない。だからできるのだ、毎日のいる池に通って話し相手になることが。

、いないのか!」

 静かな池に向かって精一杯叫ぶ。けれど何の反応もない。この一週間、人魚を釣り上げただとか、捕獲しただとかいう噂は聞かない。あの尾ひれでは、一人でホグワーツ内の他の池に移動することは残念ながら不可能だ。だからきっとこの池にいるはず。しんと静まり返った池にしびれを切らし、石の一つや二つ投げ込んでやろうかと、足元の小石を拾い上げ、構えたその時、ようやく勢いよく池からが顔を出した。

「呼んだ……って、何をする気!?」
「あっ、いや、なんでもない…!」

 丁度投げる体勢に入った所に現れたため、誤解を呼んだらしい。構えるに、僕は小石を背中に隠す。…一週間来なかったからと言って、別段は怒っている様子はなかった。水面を揺らして僕のすぐ足元まで泳いで近寄ると、「なあに?」と小首を傾げて訊ねて来た。彼女と目線を合わせるため、膝をつくと彼女の瞳に僕の姿が映っているのさえ分かった。

 水に濡れた髪はなお美しく、池から透けて見える尾ひれは虹色に光っている。宝石のような青い瞳は澄んでいて、何百年生きてなお濁りを知らないかのよう。改めてそれを感じるとやけに緊張するのだが、僕はゆっくりと呼吸をして、考えていた言葉を伝える。

「僕がの話し相手になる」
「え?」
「寒い冬でも、雨の日でも、僕は毎日ここに来る」
「ちょっと待ってセブルス、私はそんな無茶をせがんだ訳じゃないのよ」
「無茶なんかじゃない」

 両手を地面につき、あの日ののように僕は身を乗り出した。馬鹿言わないで、との目は語っているが、僕は本気だ。

「退屈なのは、不幸なことだ。何もしていない君が不幸でいて良い訳がない」
「…………」
「だから、僕は毎日ここに来る」

 するとは眉を下げて俯き、池の中ほどまで背を向けて泳いで行ってしまう。やはり僕では駄目だったか―――肩を落として立ち上がろうとしたその時、小さな声で「知らないから」と言われる。顔を上げると、は首まで池に浸かっていた。依然こちらを見ないまま、池の中央で佇む。じっと、その次の言葉を待った。何かを言おうとしているように思えたから、僕はまだ立ち上がれずに彼女の言葉の続きを待った。そして、掠れた声が僕の耳に届く。

「風邪引いたって、知らないんだから」

 大丈夫だ、と返すと、は大きな音を立てて池の底へ帰って行ってしまった。不機嫌になった訳ではないのだろう。きっと、彼女も実は僕と同じで何かを伝えるのが下手なのだ。何百年生き、馴れ馴れしいほど軽く声を掛けられたとしても、それらは全て冗談めいた言葉ばかり。心の奥底の、本当の気持ちなど上手く伝えられないのではないだろうか。似た者同士、なんだか仲良くなれるような気さえする。また明日来る、との消えた池に向かい叫ぶと、返事のつもりなのかぶくぶくと池の真ん中で泡が浮かんで消えた。



*



「だからって卒業してまでここに来ることないのに」
「ここの教師だ。問題ないだろう」
「あーあ、あの頃のセブルスは可愛げあったのにね。どんな激しい嵐でも!雪が吹雪いても!僕はに会いに来るんだー!って」
「少々脚色が過ぎますぞ、人魚殿」
「ほら、可愛くないわ」

 あれから何十年という付き合いになるが、は変わらずこの池にいる。金色の髪も、青い瞳も、虹色の尾ひれも何一つ変わらない。声をかけるような生徒も来ず、私がいない日はひたすら暇を持て余しているのだという。生きた年数は私とは桁が違うが、その無邪気さも純粋さも清らかさも失われず、彼女はここに住み続けている。人が生きれば生きるほど削がれて行くものを、決して褪せずに持ち続けることは容易ではない。外見だけでない、中身さえも腐らずに生きて行くことは、人間には不可能なことだ。事実、私自身何度もに指摘されている。そう、今のように。

「でも、変わらないのね」
「何がだ」
「セブルスは優しいわ、昔も今も」

 まるで慈しむように目を細め、私を見上げる。「…そうですかな」「そうですよ」心からの言葉に言葉を贈り返すことは、相変わらず苦手だ。何十年と経とうとこれだけは性格だ、仕方がない。むしろ、あの頃に比べて更に口にする言葉は少なくなった。こうして過ごしていても、交わす言葉は少ない。けれど、十メートルを何百メートルに感じたあの頃とは違う、今は一メートルさえないに等しい。澄んだ青と視線を合わせれば、伝わるものもある。

 けれど、その目をまた孤独に染める日がいつか来るのだろう。私もまたを置いて行かなければならない。けれどそれまでは、何度でもこの池に足を運ぼう。孤独と退屈を謡う人魚が、少しでも笑顔でいられるように。彼女の笑顔は枯れない花、その花に水をやるように、私は彼女に会いに来よう。









(2012/12/15)