月夜に残す



 貴方は何を残すのかしら――――かつて、同級生だった女子生徒に言われた言葉を僕は思い出した。一人でいるのが好きで、いつも奇妙な本を読んでいた女子生徒だ。ふらりと現れ、ふらりと去って行く。不思議な空気を纏った少女だった。何か深いかかわりがあったかと言われれば、何もない。それでも、お互い一人でいることが多く、気付けば会話している、その関係こそが最も奇妙なものだった。

 ――――親も代々レイブンクローの家系らしい。レイブンクロー生らしく頭は良かったが、その性格の掴めなさ故、近付く生徒がいなかったのも事実。話し掛ければ答えるものの、積極的に会話しようとしないため、二言三言で終了する淡白な生徒だ。けれど唯一会話を続けることができたのは、あの広いホグワーツの中でも僕だけだっただろう。

「月の満ち欠けは、人の一生と同じね」
「…と、いうと」
「最初は何も持っていない、やがて満たされ、けれど失い、また消えて行く」
、君は詩人にでもなるつもりかな」
「まさか。ああいうのはロマンチストがなる職業よ。残念ながら私は最も残酷な現実にこそ魅力を感じるわ」
「なかなか恐ろしいことを言う」

 半月に両の手を伸ばす彼女の、ローブから伸びる白い腕。黒い空にぽっかりと空いた穴のような月の光を浴び、それは白いと言うよりも青白いと形容した方が正しい。動かなければ、人形と間違うほどに、彼女の容姿というのは“完璧”と称するに相応しかった。その完璧な容姿も、彼女に近寄りがたくする要因の一つだろう。尤も、僕はそんなものに怖気づいたりはしないが。寧ろ、いつも気だるさを漂わせている癖、たった一つだけ生きている眼に見られることの方がよほど恐怖を感じる。開心術など使えないはずなのに、心の奥底まで見通すような強い眼は、僕のこれまでも、そしてこれからも見えているのではないだろうか。勿論、そんなことがあるはずがない。けれど事実、彼女は人の考えを当てるのが上手かった。

 一抹の恐怖を覚えると共に持った好奇心は、規則を破り夜中に校舎を抜け出した彼女に罰則を与えるのではなく、彼女と過ごすことを選ばせた。疚しい気持ちは何もない、ただじっくりと話す時間が欲しかっただけだ。

「本当に恐ろしいのは私じゃない、貴方の方でしょう」
「その理由をお聞かせ願おうか」
「何を考えているか分からないもの」
「君ならなんでもお見通しな気がするけどね」
「馬鹿言わないで」

 月を掴まんとする手を下ろし、長い髪をなびかせて振り返った彼女は、困ったような、苛立ったような、複雑な表情をしていた。けれど相変わらず声は静かなままで、彼女の感情など読めやしない。人の気持ちなど読めないのが普通だ。はきっと、他人のそれに敏感過ぎた。魔法でも何でもなく、勘というのが冴え過ぎているのだろう。僕もどちらかというと彼女に近い。だが、肝心なのはそれを上手く利用するかどうかだ。恐らく彼女には良心が働いている。だから人の気持ちの機微に敏感なことに、大きな疲労を感じてもいるのではないか。

 僕は違う。人の考えが読めれば、それを僕の利となるように使う。どうせ一度きりというのなら、上手く泳いで見せなくてどうする。他人の考えや腹の内が読めた所で何も罪悪感や疲労を感じる必要はないのだ。…僕とは、近い所にいながら随分遠い所にいるらしい。

「人というのは少なからず野望を抱いているものよ。良いこと、悪いこと、大きなこと、小さなこと。けれどリドル、あなたは分からない」
「そうだろうね、僕は誰にも理解できない」
「違うわ、何か腹の中に抱えてる癖にそれを微塵にも感じさせない。それがとてつもなく恐ろしいのよ」

 やはり彼女は勘が良い。僕が抱いている野望は、野望などという言葉では生温いほどだ。多くの人々が恐怖し、逃げ惑う姿すら頭に浮かぶ程には、この世界を揺るがすものだと信じている。はそれに気付きながら、それでも僕を止めるだけの力は少しも持たない。恐怖を感じるだけの、他の人間たちと同じ弱者に過ぎないのだ。逃げるか、恐怖を嘆くか、悲しみに暮れるか――――負の感情に囚われた彼女を想像すると、僕は腹の底から笑いが込み上げて来た。突然大声で笑い出した僕を、彼女は怪訝そうな表情で見つめる。弱い癖に怯むことはしない、生意気な人間だと思った。けれどそれも悪くない。そういう人間だって一人くらいいてもいい。

 やがて、夜の庭に響き渡った僕の笑い声も止むと、彼女は目を細めて再度空を仰いだ。祈っているのかなんなのか知らないが、弱いなりに彼女のその姿は美しかった。思わず見とれてしまう程には、美しかったのだ。様々な事に気付きつつ、物事を動かすだけの力はない、そんな己の無力さを誰よりも知っているのは彼女自身。弱さをも纏った彼女は、美しかった。そう、美しいものは脆く儚いのだ。

「大きな野望を持つ人間ほど、大きなものをこの世に残すわ」
「そうだろうね」
「それじゃあ、ねえリドル、あなたは何を残すのかしら」

 挑むような言葉。その言葉に僕は、「さあね」と答えた。世界をひっくり返すほどの何かだとか、そんなことまで教えてやる義理はない。教えてやらないのも優しさなのだと思った。僕の野望というやつを聞いた所で、またどうせ彼女には何もできない。それならせめて、教えてやらないことだ。ただの憶測や予感で済むように、具体的な内容を教えないことだ。僕の曖昧な返事を聞いて、眉根を寄せた彼女は僕を通り過ぎて行った。これ以上僕には関わらない方が良い。それが彼女自身のためであり、僕のためでもある。

 それからも僕とは顔を合わせることはあったが、言葉を交わす回数は格段に減り、卒業するその日には最早視線すら合わなかった。もしかすると僕の知らない所で彼女も僕を見ていたのかも知れないが、ホグワーツという檻を卒業して彼女との交流が完全に絶えた今、それを確かめる術はない。愚かなことに、彼女のその弱さにこそ魅力を見出しつつあった僕は、これからも彼女とこうして話す機会があれば、手に入れたいと思うようになるのも時間の問題だったのだ。弱者など興味ないはずなのに、この僕に興味を抱かせた彼女の弱さのその実を、一番近くで知りたいと思うようになったかも知れない。

 もしも今の僕を彼女が見たら、どんな顔をし、どんな言葉をくれるのだろうか。この世を暗黒に引き摺り下ろさんとする僕の姿を見て、それでも言うのだろうか。あなたは何を残したいの、と。








(2012/09/01 遅くなりましたがいづるちゃん誕生日おめでとう!)