何も知らないって分かっていた。多分、分かりたくなかったのだと思う。いつまでも変わらない人はいないって、頭では分かっていても認めたくなかった。総司君は総司君だって思いたかったんだ。











「遅い……」

 総司君の帰りが、遅い。今日は夜の巡察があるから、帰りを待ってないで寝ているように言われていた。けれど何か落ち着かない。そわそわして眠れない。そろりと布団を抜け出して、羽織をひっかけると廊下に出てみる。暗い空にくっきりと浮かぶ青白い月の気味悪さは、私の不安を益々大きくさせた。

 なかなか総司君には目的を言い出せないままだ。ただ毎日屯所で家事のお手伝いをして過ごすだけ。時間はどんどん過ぎて行くのに、ここへきてからの私と総司君の関係は何も変わらない。それは昔と何も変わらない、つまり進展がないと言うことだ。

「早く帰って来ないかなぁ」

 はあ、と手に息を吐き出せば、一瞬空気が白く曇ってすぐに消える。繰り返しても繰り返しても冷えた指先は温まらない。でもそれより、早く総司君に帰って来て欲しいと思う。早く帰って来て、こんなに胸がざわめくのはただの思い過ごしだって確かめさせて欲しい。総司君がいれば不安なんて何もない。心配することだってない。

 何度目だろうか、息を吐き出したその時、急に門の方が騒がしくなる。総司君が帰って来たのかも知れない。そう思って慌てて人の声のする方へ向かう。総司君の背中が見えて安心したのも束の間、「総司君」と名前を呼び掛けて、私は息を詰まらせた。

「そ……じ、く……」

 振り向いた総司君の着物は、月の明るいせいで真っ赤になっているのが嫌でもよく分かった。引き攣る喉、動かない足、体を硬直させるのは赤ばかりじゃない。見たこともない総司君の冷たい目に、私は言葉もなくした。

「なんで、出て来たかな…」

 だから寝ていろと言ったのに。実際は言われていないけれど、総司君の表情から、そう言われているような気がして竦んでしまう。目が合った瞬間、びくりと肩が跳ねた。膝ががくがくと震えてそこから走り出すことすらできない。

 総司君の問いには、答えなければならないということはなかったのだろう。けれど何か言葉を口にしないといけない気がして、次に焦燥感が胸を占める。「わ、たし…その……」まるで言い訳探しをしているみたいだ。何を、と言う訳でもない。別段、見てはいけないものを見てしまったわけでもない。いつかは遭遇するかも知れなかったのかも知れないのだ。けれど、総司君を見ていると私はここにいてはいけなかったのではないかと、そう直感する。

「もう来ちゃ駄目だよ」

 総司君はそう言うと、くるりと背を向ける。どこか寂しそうなその背中に声をかけることも、手を伸ばすことも叶わず、その場にへたり込んでしまう私。違う、そうじゃない、と頭の中で繰り返して、心だけは総司君を追い掛ける。

 総司君を拒んだ訳じゃない。でも怖くなかった訳じゃない。いや、そんなの私の勝手な考えだ。いつも私の前で見せてくれる顔だけが総司君な訳がないと、どうして考えなかったのだろうか。新選組に関する悪い噂だって、彼らが何をしているかだって聞いてはいた、知ってはいた。なのにいざそれを自分の目で見た途端、怯んでしまうなんて。

 どうすればいいか分からない。明日から総司君とどんな顔をして会えばいいのかも分からない。けれどたった一つ分かることは、私は総司君を傷付けてしまったと言うことだけ。




***




 これが怖かったのだと、恐れていたことなのだと、を見て思った。ここに来るまでに様々な噂にも触れただろう。けれど聞くのと目にするのはまた違う。静かな田舎で育ったが、こんな血生臭いことになんて慣れているはずがない。だから自分のこんな恰好を見れば怯えることは予想できていた。部屋から出ないように、早く寝るようにと言ったのはこれを恐れていたから。明日からに合わせる顔がない。

「それで、のことはどうするつもりだ」
「うるさい人だなあ、今考えてるんですよ」

 報告が終わればきっと土方さんには聞かれるだろうと思っていた。をここに置いてくれるよう対応してくれたのは、認めたくはないが土方さんのお陰だ。だから関係ないだとか、土方さんに言うようなことじゃないとか、そんなことは言えない。ただ、そう返すことで何の案も浮かばないことを隠したかった。

 そうだ、どうすればいいかなんて分からない。誤魔化せるはずがなく、弁解できるようなことでもない。疚しいことをしているつもりだってない、これは任務だからだ。だけど怯えるの目を見て、ずきりと胸が痛んだ。もう今日までのようにと話せなくなってしまったらと思うと、痛んで仕方がない。

「これで分かっただろ。はここに居て良い人間じゃねぇ。田舎に返す」
「それは土方さんが決めることじゃないでしょう」
「じゃあこれからはびくびくしながらここで生活して行くのか?誰が面倒を見る?あいつのことを思うんならどうするのが一番安全で幸せなのか考えろ」

 本当にこの人は、いつも嫌なところばかりを突いて来る。悔しいけれど正論だ。こうなってしまった以上、は普通にはここで暮らせない。それならいっそ、忘れるみたいに家へ帰った方が良いのかも知れない。ここに居ればいつどこの誰が襲撃してくるかも分からないし、どこで彼女自身が命を落とすかも分からない。

 けれど、それは幸せなことなのだろうか。少なくともは、の目的は自分だった。安全なんて二の次にするほど強い思いで、ここまで来てくれた。それを踏みにじるような真似をして、それで彼女は幸せになれるのだろうか。違うだろう。彼女のいない状況で話し合っても答えが見えて来る訳もない。彼女がどうしたいのか、それすら聞かずに決めてしまうのは間違っていると、それだけは自信を持って言える。

「あの子は帰ることを望まない」
「望まなくてもそうするべきだろうが」
「そんなはずがないでしょう。あの子の意思を無視して、それであの子が幸せになれるはずがない」
「まるであいつの幸せが何か、知ってるような口ぶりだな」

 知っている。自意識過剰だと思われても構わない。彼女が、がまだあの時の約束を違えず信じてくれるなら、求めてくれるなら、彼女がここにいるための手段は一つだけある。それを示せるのはこの世に自分しかいないことも分かっている。

「あの子が僕のお嫁さんになることですよ」








 

(2011/4/24)