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 あれから一言も喋っていない。そうしている内に、彼女の教育実習も今日で終わりとなってしまった。これでいいのか、このまま終わっていいのか、何度も自問自答を繰り返す。けれど一向に答えは出そうにない。何をしていても、どこにいても、先生のことは頭から離れないし、だからと言ってどうすることもできない。

 逆に、俺はどうしたいのだろうか。噂だけは自然と消滅して行ったが、俺と先生の間に生まれた亀裂だけは元通りにならない理不尽さに、ひとり唇を噛む。何もないのだ。本当に、俺と彼女の間には虚しくなるほど何もなかった。

 一人残って教室で日誌を書くも、その簡単な作業すら手につかない。今日の四時間目は何の授業だったか、そんなことをぼんやり考え、思い出した所でペンは進まない。部活をさぼったことなどないのに、今日はどうも行く気になれない。部活どころか、何につけてもそうだ。先生のことが引っ掛かって動けずにいるのだ。


「険しい顔してんなあ」
「原田先生…」
「差し詰め、先生との噂のことで悩んでんだろ?」
「あらぬ噂を立てられて悩まないはずがない」
「まあな」


 原田先生は先程の授業で忘れたものがあるらしく、教卓の中を覗き込んで「でも」と言った。


「どうでもいい相手だったら悩む必要はないはずだ」
「彼女は教育実習生だ」
「関係あるか。惚れた腫れたに立場なんて」


 確かに、人の気持ちが立場でコントロールできるなら悩みはしない。そんなもの関係なく左右されるから悩むのだ。けれど、そうした所で俺は一体何ができるというのだ。明日からはもう彼女と会うこともない。彼女は普通の大学生に戻り、俺もまた教育実習生などいない生活に戻る。それ以前に彼女は土方先生を慕っている。万に一つの可能性すら、俺の手の中にはないと言うのに。

 ただ、それでもどこか不快だ。この先、俺と先生の関係が発展することは無くとも、このまま、不穏なまま別れるのは後味が悪い。以前の生活に戻る?もう、戻ることなどできはしない。彼女を思ってしまったからには、以前と同じようには行かない。


「彼女にとっては迷惑かも知れない」
「好意を持たれて迷惑だって思うような相手なら、それは斎藤、お前に見る目がなかったんだろうよ」
「…………」
「そういや、教育実習生は今頃、第二会議室で反省会だろうな。終わるのは確か、五時だったか」
「…それが、どうした」
「いや、一人ごとだ。気にすんな」


 すると、原田先生は忘れていたらしいプリントの束を持って教室を出て行った。…あの人も人の世話を焼くのが好きな人だ。だが、今は彼のそんな正確に素直に感謝することにした。

 五時まであと少し。先程までの滞り様が嘘のような速さで日誌を書き上げると、鞄を掴んで教室を飛び出す。急いで日誌を職員室に提出すると、あの日、先生と一度だけ鉢合わせしたバス停で彼女を待つ。あの日のように二人だけということはないのかも知れない。今日はこのバス停を使わないのかも知れない。それでも待ちたかった。待って、来ないならもうそれで仕方ない。それは、結果、何もせずに終わったのではないのだから。少なくとも、この場所で彼女を待ったと言うことはしたのだ。

 やがて、五時と少しを回る頃、バスの到着時間に合わせてか、生徒たちが校門からぞろぞろと出て来る。その中に先生の姿を探すが、見当たらない。いや、まだだ。このバスに乗らないだけで、次のバスかも知れない。それでも来ないなら、その次かも知れない。反省会が長引いている可能性もあるのだから――そうして、一体どれだけ待とうとしているのかなんて考えず、俺はバスを見送った。再び閑散とするバス停。学校の敷地内から生徒たちの声は聞こえるが、バス停にはまた俺一人になった。

 その後もまだ、二本バスを見送った。まだ五時台だと思うと、どうしても諦めきれずにいたのだ。…そんな思いが実を結んだのか、やがて、六時台一本目、合計三本目のバスが過ぎ去ってすぐに、彼女は一人でバス停に現れた。


「…斎藤くん、いつまで経っても帰らないんだもの」
「まさか、見ていたんですか」
「最初からずっとね」
「趣味が悪いです」
「ごめんなさい」


 やけに素直に謝られて、俺は言葉を失う。彼女は大きな茶封筒を抱え直すと、あの日と同じように俺の隣に並んだ。言葉もなく、目の前を通り過ぎて行く車をただ見つめた。すると、先生の方から話を切り出す。


「そういえば、文系に進路変更するって聞きました」
「…はい」
「何か、心変わりでも?」
「知らない世界を知るのもいいと思っただけです」
「そっか」


 嘘だ。本当は先生の言葉が大きいのに。先生が文系の科目も面白いと、そう言ったのだ。自分も元は理系だったけれど文系に方向転換したのだと。

 そう素直に言えれば良いのに、上手く言えない自分が憎い。素っ気ないともとれる俺の返答に、けれど先生は嫌な顔一つしない。そんな彼女が視界の片隅で、腕時計を確認する仕草が見えた。そうか、バスが来るまでの間だけなのだ。あの日は偶然、部活も終わった後だったが、今日はこの後、部活に行かないといけない。だから、先生がバスに乗る姿を見送ったら、それが最後。


「斎藤くん、あれだけ文系は苦手そうな顔してたのに不思議です」
「…俺も、自分でそう思います」
「ね、何があるか分からないって、私、言ったでしょう?」


 悪戯っぽく笑って見せる。その時、ようやく俺と先生の目が合った。しかしタイミングが良いのか悪いのか、そこでバスが到着してしまう。すり抜けるように先生は「それじゃあ、お元気で」と言う。

 何を言わないのか。何を言いたいのか。別に、好きだとかそういうことを伝えたい訳ではない。相手に迷惑をかけたくもないし、結果の見えている所へ勝負を挑むほど子どもでもない。最初から分かっていたのだ、全部。それなら俺が先生に伝えなければならないのはもっと別のことだ。


先生!」


 バスのステップを踏む彼女を呼び止める。すると、ぴたりと足が止まり、泣きそうな顔で俺を振り向いた。


「何があるか分からないなら、いろいろことを諦めるべきではないと、俺は思う」
「え…?」
「この学校の国語科教員になること、狙ってみてもいいと、思い…ます」


 何があるか分からない、と最初に言ったのは先生だ。それなら尚更、諦めるべきではない。俺にああ言っておいて、自分は投げるなんて真似するべきではない。これだけは伝えなければと思っていたのに、いざ言ってみると何か偉そうなことを言っている気になって、語尾は消えて行く。けれど、先生は泣きそうな顔から一変、いつものように笑った。


「いつも斎藤くんに元気をもらってますね、私」
「いや、そんなことは」
「斎藤くんが言ってくれたこと、ずっとずっと、全部忘れないから」


 そう言うと、今度こそバスに乗り込んでその扉は閉まる。発車間際、窓越しに見えた先生は、「ありがとう」と言っていた。声は聞こえないけれど、間違いなく唇はそう動いた。俺は結局、感謝の一つも言えなかったというのに。

 でも、最後に見た先生が笑っていてくれて本当によかったと思う。まるで「先生は笑っている方が似合っている」という、あの言葉をなぞるかのように、先生は笑ってくれたのだ。だから、それでよかった。ありがとうの一言を伝えられなかったことだけが唯一心残りだけれど、でも、これでよかったのだろう。好きだとか何だとか、そう言うことを伝えなかったからこそ、よかったのだと。

 教育実習生と生徒、その一線を踏み越えないがゆえの良い関係を保ったまま、思い出になるはずだ。








*








「うー…なんでうちのゼミだけこんなに課題が多いんですかー…」
「何を言っている。大学とは本来勉強をする所だ。課題が出るのは当然だろう」
「そうですけど…そうですね…」


 反論しかけてやめる。机に突っ伏したその塊に小さくため息をつくと、びくりと肩が震えて恐る恐るこちらを見た。別に彼女を叱責するつもりはない。どの学生だって同じようなことを思うのだろう。ただ、素直にその感想を述べたのが目の前の彼女だっただけで。課題を出す度に学生たちが固まるのは見慣れているのだ。


「…怒りました?」
「怒ってなどいない。呆れたが」
「う…」
「いいか、人生って言うのは何があるか分からないんだ。だから、」
「勉強して損はないはずです」


 ノックもなしにドアが開いたかと思えば、どこか見覚えのある姿。思わず立ち上がって、言葉をなくした。そしていつかと同じように悪戯っぽく笑う。


「それ、私の受け売りですよね、斎藤くん?」
「…お元気そうで何よりです、先生」


 何があるか分からない。途切れたと思っていた線が、実は繋がっていたと言うことも十分有り得る。それが細く細く、切れそうで消えそうな線だったとしても、例え目で見えないような細い線でも、繋がっていればそれは点ではなく線。自分だけどこか遠くへ離れてしまったように思えて、現実はしっかりと繋がりを持っていた。何年経ても、どんな姿になっても、在処だけは変わらず、三角形のように途切れることなく、繋がってはいるのだ。

 この時、何があるか分からない、という言葉を一層、俺は噛み締めたのだった。








FIN.



(2010/11/1)