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(もっとこっぴどく叱られるかと思った)


 それが素直な感想だ。けれど思いの外、担任は簡単に解放してくれた。それとも、進路が揺れることはよくあることだと、教員歴のある土方先生は解釈したのだろうか。それなら頷ける。突然の進路変更にも、「その件はまた後日ゆっくりな」と切り返され、俺は指導室を後にしたのだ。

 あらぬ疑いをかけられるのは気持ちの良いものではない。特にこう言った、今後の学生生活について関わることであれば尚のこと。大体、嘘か本当か分からないようなことを騒ぎ立て、撒き散らすなどどうかしている。相手をどう思っているかは別として、迷惑の他ない。相手も将来がかかっていることだというのに、一体自分と彼女の何を見たというのだろう。

 不快な思いで教室へ向かっていると、前方から件の教育実習生の彼女がやって来た。何だか嫌なタイミングだ。これ以上変な噂を立てられてもお互いが困る。いつもなら何か口実に声をかけるのだが、今後は軽く会釈をするに留めよう。そう決めて彼女を見ずに小さく頭を下げる。その時だった。


「…ごめんね」


 微かな声が確かに届く。彼女も決して俺を見ずに、すれ違うその一瞬でそれだけを告げた。思わず振り返ってしまうが、相変わらず姿勢の良い背中は迷いなく離れて行く。すれ違い様も歩く速さを落とさないままだった。振り返らない先生、立ち止まる俺。遠くなる後ろ姿を見つめるだけで、追いかけることすらできやしない。立場がそれを邪魔する。


「何かあったのは本当みたいだね」
「…総司」


 音もなく現れたクラスメートを振り返ると、何やら楽しそうに笑みを浮かべている。ろくなことを考えていないであろうその表情に、「何もない」とだけ返すと、教室へ戻るべく総司を通り過ぎる。だがそう簡単に離してくれるはずがなく、がしっと肩を掴んで引き止められた。…厄介なことになりそうだ。

 諦めてゆっくり体ごと振り返る。総司は総司で、彼女の消えた方向を見ていた。


先生、土方さんのこと好きだよね」
「さあな」


 口ではそう言いつつ、総司の言っていることは当たっていた。さして目立つ実習生でもないので他には誰も関わらないが、少し観察していれば分かるらしい。あまり彼女と話している所を見かけたことのない総司でさえ気付いたのだ、もしかすると他の教員も気付いている人間はいるかも知れない。

 不毛な片想いをしていることは彼女も同じだった。教員と教育実習生、教育実習生と生徒。きっと、出会った場所が違ったなら何かが違ったかもしれない。けれど、場所が違えば出会わなかったかも知れない。そう思うと、出会ったことは果たして良かったことなのか悪かったことなのか分からなくなる。大体、こういうことに慣れていない俺は、気持ちの処理というのをどうやってすればいいのかが分からない。自然と熱は冷めて行くものなのだろうか。


「まあ実際、土方さんも先生を気にかけてるみたいだけど。過保護だよね」
「…何が言いたい」
「別に?ただ、引くなら早い方が傷は浅くて済むよ、っていう助言かな」


 そんなこと、自分が一番よく分かっている。わざわざ誰かに言われるまでもなく、自覚はある。それができないから困っている。少なくとも彼女の教育実習期間中は嫌でも顔を合わせなければならない。話すことはなくても、彼女を見るだけで彼女を思う気持ちが渦巻いて行く気がするのだ。教育実習など早く終わればいい。

 俺の顔がそんなにも険しくなっていたのか、総司は「大丈夫、一君?」と珍しく本気で心配してくれていたようだが、「大丈夫だ」と短く答えて教室に戻った。








 

(2010/08/21)