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 その日は偶然、委員会で帰りが遅くなった。薄暗くなり始めたバス停に向かっていると、バス停には先客がいることに気付く。それが例の教育実習生、先生だと認知するのは一瞬だった。彼女もこちらに気付くと、笑顔で会釈をする。そして体ごと俺の方を向いて「斎藤くん、遅いんですね」と言った。その表情も声も、どこかいつもよりぎこちない。


「委員会があったので」
「なるほど」
先生」
「うん?」
「…いや、お疲れ様です」


 何かありましたか、と聞こうとしてやめる。訊ねた所で、学生である俺が力になれる訳がない。年齢ならたった三、四しか違わないはずだが、その間に経験していることは当然俺以上。年下の、しかも教育実習先の学生に相談どころか何があったかなど話をするはずがないのだ。教育実習生と生徒。そこには明確な線引きがなされている。

 並んでバスを待つ時間が、一分でさえとてつもなく長く感じる。お互い黙り込んでしまうと余計気まずく、嫌な空気がひたすら続いた。落ち込んでいるらしい彼女にかける言葉など見付からず、けれどいつもと違う様子の彼女を放っておけず、できる限り平静を装って話し掛けた。


先生はうちの学校に就職するおつもりですか」
「うーん…どうだろう。国語科の枠って空いてないみたいだから無理かなあ」
「そうですか」
「斎藤くんは進路は決まってるんですか?」
「一応は」


 そっか、と短く返すと、また沈黙。話し掛けたのは失敗だったかも知れない。気まずく感じているのは俺だけで、彼女は本当なら誰とも遭遇せず一人で帰りたかったのかも知れない。誰だって一人になりたい時はある。それを、今日に限ってタイミングが悪かったのだ。

 バスは遅れているようで、時刻になってもまだ来ない。彼女も左手首の腕時計を確認したのが視界の隅に映った。


「バスが遅れるのも、私が生徒の頃と変わりませんね」
「…はい」
「高校時代に戻った気持ちになります。書道部だったからこんなに遅くなることはなかったんですけど」
「書道部…」
「私はそんなに上手くもなかったんです。大会で賞もとったことなんてないし。でも、やっぱり先生に誉められた時は嬉しかったなあ…」


 目を細める彼女の思い浮かべる“先生”が誰なのか、手に取るように分かる気がする。初めて彼女に話し掛けたあの日――プリントを渡したあの日から余計彼女が気になっていたのだが、見れば見るほど現実を突き付けられた。土方先生に指導を受けている時の真剣な表情だとか、嬉しそうに返事をしている様子だとか、それらは決して俺に向けられることはない。そういった当然のことを、それでも当然だと受け入れきれずにいる。

 話の切れたその時、丁度バスが到着した。かつん、と低いヒールを鳴らしてバスのステップを上がる先生。それに続いて乗り込むと、何かに躓いたのか、小さな悲鳴を上げてぐらりと彼女の体が後ろに傾ぐ。俺は慌てて鞄を放って彼女を受け止めた。


「――大丈夫ですか」
「だ、だいじょうぶ、です」


 他に乗客が殆どいないのは運が良かった。バスの運転手にも大丈夫かと問われ、先程「大丈夫」と答えつつも全く大丈夫そうに見えない彼女の代わりに俺が返事をしておいた。

 それが引き金になったのか、すっかり彼女は気を落としてしまい、席についてからもずっと俯いたままでいる。人がまばらなのをいいことに、最後列で間を空けて座ったが、横目で彼女を盗み見ると今にも泣き出しそうだ。どう声をかけるべきか、そっとしておくべきか、窓の外を眺めながら散々迷ったが、窓に僅かに映った彼女の横顔を見ると、どうしても声をかけずにはいられない。俺は先生の方を向かないまま呼び掛けた。


「先生」
「はい?」
「何があったかは聞きませんが」
「え?」
「先生は笑ってる方が似合っていると思います」
「…………」


 ガタン、と一際大きくバスが揺れる。


「…ありがとう、斎藤くん」


 聞こえるか聞こえないかという小さな声。けれど俺にははっきり聞こえた。

 何を落ち込んでいたかは知らない。それを聞き出す術も理由もない。けれど、俺にしかかけられない言葉もあるだろう。何も知らないからこそ言えることもあるのだろう。








 

(2010/07/04)