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先生、落としました」


 急いで教室を出た背中を呼び止めた。そのことに躊躇いがなかった訳ではない。けれどなくては困るだろう。俺は、赤いペンで大量にメモ書きのされた一枚のプリントを渡した。抱えたファイルの間からひらひらとすり抜けたのだが、余程焦っているようで気付かなかったらしい。


「わ、ごめんなさい」


 四時間目、教育実習生、人気のない授業と、悪条件の重なったため、彼女の行動のいちいちを気にとめる生徒もいない。偶然俺が見掛けたから良かったものの、気付かなかったらすぐにごみ箱行きにでもなっていただろう。

 教員が教えても面白みの分からない授業を、教員実習生が教えた所で変わりはない。尤も、授業に楽しみだとかを見付ける方が難しい。学生の本分は勉強、ただそれだけだ。


「え…っと、斎藤くん、ですよね」
「そうですが」
「よかったあ。プリント、ありがとうございます」
「…いえ」


 愛想よく笑うその顔から、つい目をそらす。名前を覚えられていたことには驚いたが、初日に担任からクラス長だと紹介されたのを覚えていたのだろう。教師を目指しているなら名前と顔を覚えるのも早い方がいい。特にここのような大きな学校では。

 教育実習と言えば、ハードだったと新任の教師からもよく聞く。一応教育学部を目指しているため、実際どうなのかが気になった。しかしいきなりどうかと聞くのも気が引ける。それに立ち話などしている暇もないかも知れない。慣れない現場で忙しいだろう。レポートに次の授業の準備にと、教育実習生であれば余計忙しい。


「あ、もしかして授業で分かりにくい所がありました?」
「いえ、そうでは」
「何か間違っていたとか」
「それも違います」
「じゃあ、他に質問ですか?私でよければ何でもどうぞ」


(“何でも”の範囲がどこまで含まれるのかは分からないが…)


 他の教育実習生も同じように慌ただしくしている中、彼女だけはいつも楽しそうだ。授業でどれだけ生徒が居眠りをしていようと、現役教師から厳しい指導を受けようと、学校にいる間の彼女は常に笑みを絶やさない。そんな他の教育実習生と彼女との差がどこにあるのか、それはとても気になるのだ。


先生はいつも楽しそうですね」
「えっ?わ、分かります?楽しいんです」
「大変でないのですか」
「大変じゃないって言えば嘘になりますけど…、教壇に立つのは夢でしたし、憧れに一歩近付いたというか」
「憧れ…」


 廊下が蒸し暑いせいなのか、彼女の頬は段々と上気して行く。俺が繰り返した「憧れ」という言葉に、彼女は小さく誤魔化すかのように「あはは…」と笑い声を被せた。そんな些細な仕種に、教育実習を楽しめるその原因を垣間見た気がする。そのことが、なぜか胸の内に重くのしかかる。それなのに、口が滑っていた。


「土方先生ですか」
「…斎藤くんってエスパーですか?」


 苦笑いのような、困ったような表情。加速する確信に、瓦礫が崩れるような、壁に衝突するような、目眩のような何かを感じた。ないまぜの感情を何と言えばいいのか分からないが、不快に思うことに変わりはない。

 そんな俺の胸中など当然知るはずもなく、彼女はまだ顔がほんの少し赤いまま小さく笑った。


「在学中からの憧れでね。その時は土方先生もまだ教育実習生だったんだけど、その頃から土方先生は授業も分かりやすくて上手かったんですよ。…斎藤くん、古典は得意?」
「…どちらかと言えば理系分野の方が」
「同じですね、私も理系だったんです。だから必死で勉強して…。何があるか分かりませんから、勉強して損はないはずです」


 また笑って、ファイルを抱え直す。そういえば荷物が多いのだった。こんな所で長話をしていては腕が辛いだろう。それでは、と話を切ると、彼女も腕時計を見て慌て始める。何か大切なミーティングでもあるのだろうか。悪いことをしたかと思ったのだが、そうでもないようで、むしろ俺の昼休みが十分縮んだことを気にしていたらしい。「貴重な休み時間をすみません」と彼女の方が軽く頭を下げる。


「じゃあそろそろ退散しますね。また明後日の授業ではお願いします」
「よろしく、お願いします」


 駆けて行く背中が、廊下の角を曲がって見えなくなるまで動けずにいた。軽い彼女の足音とは逆に、俺の足取りは重い。

 土方先生といえば、俺も憧れているような相手だ。そんな人を相手に勝てる訳がない。


(……勝つ?)


 自分の思考の行き先にふと立ち止まる。一体、自分は今何を考えた。勝つ、なんてどういう了見だ。それを改めて考えた所で結局行き着く先は同じ。もう、知らない内に引き返せない所にまで来ていた。










(2010/07/04 土方先生←教育実習生ヒロイン←生徒斎藤なんて、どんな趣味だよ私…)