先生お嬢さん




 その日の訪問者は、彼女ではなかった。彼女よりも気まぐれに現れる人物だ。

「最近は全然街にも出てないみたいだし、もしかして倒れてるんじゃないかとでも思ってね」
「原稿に掛かり切りだっただけだ」

 総司は屑篭に積み上げられたぐしゃぐしゃの紙屑を見ると「ふーん」と言って笑う。原稿に掛かりきりだったのは本当だ。日にちの感覚も狂いそうになるほど、必要最低限以外ではこの部屋を出なかった。それでも感覚が狂うにまで至らなかったのは、他でもない彼女―――の訪問が頻繁にあったからだろう。何かと理由をつけては庭から侵入して部屋に上がり込み、時には邪魔をして帰って行く。そのせいで原稿が遅れてしまうこともしばしば、いや、多々あった気がするが、彼女の押しに負けてしまう自分も自分なのだ。彼女に「だって斎藤先生のお茶が飲みたいのですもの」などと言われてしまえば、きつく追い返せる訳がなかった。

 ここの所は遅くまで起きて原稿を仕上げていたため、総司の相手をしている場合ではないのだが、今日は仕事の件で訪問して来たので、欠伸を噛み殺して言葉を返す。しかし他人事のように言っているが、そもそも総司は今日が締め切りの原稿を取りに来たのではなかったか。焦った様子もなく部屋に入って来て拍子抜けしたくらいだ。

「ああ、そうそうこれだったね。この間の続編」
「そうそう、ではないだろう…」

 今思い出したように言い、机の上の上がったばかりの原稿を手に取る。茶封筒の中身をぱらぱらと確認すると、「じゃあ貰って行くね」と言ってまた封をした。触りを読んだだけなのだろうが、それで本当にいいのだろうかといつも思う。俺も確認はしているが、中身と枚数をちゃんと確かめているとは思えない。そんな考えが伝わったのか、会社でちゃんと読んでいるのだと総司は言った。…それでは後から間違いが見つかった時に二度手間だろうに。

「内容もなんとなく理解したし」
「…それは本当か?」
「でも珍しいよね、一君が恋愛物を書くなんて」
「げほごほっ!!」

 盛大に咽た。これは、読んでいないだろう。俺はそのような話を書いた覚えはない。面白そうに笑う総司を睨んでやれば、「違った?」違うに決まっている。

「どう見てもそうだと思ったんだけどなあ。この“私”が飼ってる“猫”って“私”の思い人なんじゃないの?」
「そのような訳がなかろう」
「でもただの愛玩動物にしては、飼い主の気持ちの注ぎ方がまるで恋のそれみたいなんだけど」

 どこをどう解釈したらそうなったのか。手元にある昨日出たばかりの雑誌から前作をさらっと読み返してみるが、そのようなつもりで書いた話ではない。またそのようなことを言って総司はからかっているつもりなのか、一度しまった原稿を取り出し、わざわざ読み始める。時折ちらちらとこちらを見て来るのが鬱陶しい。

 いや、しかしこれは総司がそう感じただけであって、他の人間はどうか分からない。例えばそう、であれば違う受け取り方をするのではないか。どうせ読むなと言っても読むのだ、次にここへ来た時に聞いてみれば良い。…しかし、どう聞けばよいのだろうか。この話をどう思う、では余りに曖昧。しかし総司にこう言われたのだが、と切り出せば自分の書いたものに対して自信がないようにとられるかも知れない。既に総司に恋愛物かと称されてしまい、続きを書きにくくなってしまった訳ではあるが。

 そこへ、廊下から何やらばたばたと騒がしい足音が聞こえて来る。恐らくなのだろうが、こんなにも足音を立てて走って来るなど珍しい。そして部屋の前でそれが止んだかと思えば、勢いよく障子が開け放たれた。息を切らして荒い呼吸を繰り返すを、総司は至極驚いた様子で見つめる。

「何、この子」
「さい、と、せん、せ…っ!これ、一体…っ!!」
「………それが、どうした」

 件の話の載っている雑誌をもう入手したのか、握り締めながら問う。一体、とはこちらの台詞だ。一体何を聞きたい。いまいち要領を得ず答えられずにいると、は総司の存在など無視して俺に詰め寄った。「説明して下さい!」「だ、だから何をだ…」「この、話です!」まだ息も整っていないと言うのに、大声で問い詰めて来る。

「斎藤先生は、どこぞかの女性に恋をしてらっしゃるのですか!」

 一瞬の沈黙の後、それを破ったのは総司の大きな笑い声だった。総司の解釈も咳き込むほど衝撃を受けたが、の解釈にはもうどこから訂正を入れれば良いのか分からず、顔を引き攣らせることしかできなかった。








(2011/6/5)