先生お嬢さん




 手近な所に並べてある本の一冊に手を伸ばして、ふと何気なく窓の外を見た。雲一つない空に、本日は晴天なりという言葉が浮かんだ。窓が西向きのこの部屋は日当たりが良いとは言えないが、それでもこれだけ晴れていれば温かく、明るい。加えて昼下がりとなれば、誰であっても眠気が襲って来るのは自然なことだ。欠伸を噛み殺して表紙をめくる。…と、途端嫌な予感が胸を占めた。そういえばこれくらいの時間となれば、ここへ突然飛び込んで来る一人の人間がいるのだ。嵐の前の静けさ、こんな日に何も起こらない訳がないのだ。

 その時、ガタガタとどこからか戸を開ける音が聞こえた。やはりか、と額を押さえていると、やがて音こそ小さいものの小走りで浮かれた足音が近づいて来る。そして何の断りもなく無遠慮に障子が開けられた。

「斎藤せんせー、こんにちは!」
「庭から入って来るなと何度言えば学ぶのだ」
「だって、驚かせたくて」

 頬を僅かに赤くしてにこりと笑う彼女は、近くに住むという女学生、とある財閥のご息女だという。自分とは身分も済む世界も違う、所謂筋金入りのお嬢様。……の、はずだ。しかしその行動は彼女の身分を表す言葉からは考えられないほど突拍子がなく、到底信じられない。彼女がここに出入りするようになったのは、ここ二月ほどだったか。街中で原稿を落としてしまった時、封筒から飛び出した数枚を拾ってくれたのが彼女。その中身が偶然目に入ったようで、以来彼女はこの小さな仕事場に足繁く通っている。名の知れたわけでもない物書きに会いに来て何が楽しいやら、余程のことがない限り、三日と空けずにここを訪れる。

「いつも同じ手口で侵入しておいて驚くはずがないだろう」
「でも初めての時はとても驚いてましたよね?」
「忘れろ」
「それより私、喉が渇いちゃった。今日は天気が良いでしょう?斎藤先生に会いたくて走ってやって来たのよ」

 勝手に上がっておいてお茶を催促するのは、一体誰の教育か。本当に走って来たらしく、髪が乱れていたりうっすらと額に汗が滲んでいるものの、至極嬉しそうに笑う彼女は悪びれた様子を一切見せない。少しばかり崩れた襟元を直しながら、またこちらを見てにこりと笑う。

 こういう奴なのだと割り切ってしまえばいくらか楽なものだが、出会った当初はいちいち腹を立てていたものだ。こんな小娘一人に振り回されて、それだけの時間があれば本も読めるし原稿も少しは進む。だが、いくら嫌味を言おうと物ともせず、懲りずに何度もやって来る彼女には何を言っても無駄だと気付き、世間の財閥令嬢像を大きくはみ出した彼女との付き合い方と言うのを自分なりに模索した。

 放っておけば良いかと思ったが、無視をすれば余計纏わりついて来た。適当にあしらえば「斎藤先生、酷いです…っ」と泣かれたこともあった。…後にこれは嘘泣きと発覚したのだが、それにしたって女子どもに泣かれるのは気分の良いものではない。二度と邪険に扱うものかとこの時に決めたのだ。

「先生、一体どちらへ?」
「茶をいれろと言ったのはあんただろう」

 一瞥して障子を閉め、部屋を出る。別段とられて困るようなものなどない部屋に、彼女を一人で居させることはいつものことだ。ああ見えて読書好きな彼女は、部屋に置いてある本を自分も全て読破するのだと言い張っている。ここを訪れたからと言って、何も終始騒いでいる訳ではなく、本を読んでいる間だけは静かなものだ。そこにいることすら忘れそうになるほど、本に熱中する。

 そう言えば先日貸した本はもう読み終わっただろうか。時折彼女はどの本が読みやすいか、面白いかなどを聞き、借りて帰ることがあるのだ。この間持ち帰ったのは、俺も気に入っている本だった。嬉しそうに本を抱いて彼女は帰ったが、どうも彼女の好みからは外れている気がするのだが。…そんなことを考えながら、茶を淹れ終わって部屋に戻れば、いつものように静かに本を読んでいた。だが、それはこの部屋にあったものではなく、彼女が自分で持って来たものらしい。…どこか、その表紙と題に見覚えがある。

「…あんたは何を読んでいる」
「山口一先生珠玉の一冊です」
「どこで手に入れた」
「すぐそこの本屋さんです。学校には置いていなかったので探しました……って、あっ!返して下さい!」

 こちらへ表紙を向けた瞬間、それを彼女から奪い取る。兎のように飛ぼうが跳ねようが、身長差から、高く掲げてしまえば彼女の手が届くことはない。…読むなとは言わない。本というのは読まれるためのものだ。しかし作者の前で堂々と読むことはないだろう。しかも、この部屋でだ。こうなることを予測していなかったのか、悔しそうに彼女は頬を膨らませる。こちらだってやられてばかりでは面白くない、そんな彼女を見て何か勝った気分になっていると、とうとうそっぽ向いていじけてしまった。…悪いのは自分だろう。

「茶が冷める」
「………………」
「淹れろと言ったのはあんただろう」
「………………」
「おい、」
「私の名前は“あんた”じゃありません」

 彼女からはいつもより低い、ぼそぼそとした声が発せられた。背中を向けているから分からないが、どうせ唇を尖らせて不機嫌な顔でいるのだろう。こうなってしまうと、彼女は言うことを聞かない限り機嫌を直してくれることはない。まだまだ子どもだなと思いつつ、機嫌を損ねたまま帰られても、俺だって気分が悪い。

 悟られないように小さくため息をつくと、彼女から取り上げた本を横に回って差し出す。本を見てから、ちらりと目だけでこちらを窺う。そして何度か手を僅かに握ったり緩めたりしてから、躊躇いがちに本を受け取った。彼女の手に収まったその本は、まだ買ったばかりなのか綺麗で、ページの端が折れているなど、傷が見当たらない。いや、それは読書好きゆえ丁寧に扱っているからなのかも知れないが。

「これは家で読むようにしろ、
「…分かりました」

 素直に応じると、そそくさと本をしまい、恐る恐る訊ねて来る。「斎藤先生、怒った?」「これくらいのことでは怒らん」「先生、ごめんなさい」ここまで素直だと逆に何か恐ろしい。逆にこちらが悪いことをしたような気になって「いや…」と曖昧な返事をする。今回ばかりは流石に彼女も気まずいようで、まだ少し固い表情の彼女は、俺に催促して運ばせた茶に手を伸ばす。一口、二口飲み下すと、湯飲みを手にしたままこちらを見遣った。

「どんな高価な異国のお茶よりも、私は斎藤先生の淹れてくれたお茶が一番好きです」
「…そうか」

 言われて俺も湯飲みを手に取り一口含むが、別段、美味くもなく不味くもない。令嬢となれば自分には想像もつかないような豪華な食事も口にしたことがあるだろう。彼女と俺は真逆の生活をしている真逆の世界の人間だ。

 例えばあの日、余所見をしていなければ人にぶつからず、原稿を落とさなかった。例えばあの日、風が強くなければ原稿は吹き飛ばなかった。そもそも、あの日に原稿が上がらなければ―――そういった些細な要因が重なって今、俺がこうして彼女と茶を飲む時間を作っている。ちょっとしたことで機嫌を悪くしたり、騒がしくなったり、時折邪魔をされたりもするが、それでも彼女がこの部屋を訪れるのは、まあ、悪くはない。








(2011/3/2)