ここ数日、の様子がおかしい。箸を持つ手が止まったり、吹き零れに気付かなかったり、虚ろな目で外を眺めていたりする。どうしたのだと聞こうとも、何でもないとかわされ続け、今日に至る。ただ落ち込んでいるだけではない、体調も悪そうなのだ。さすがに心配した副長が仕事を休むよう言いつけたが、聞こうとしない。怒鳴られても尚、部屋に引っ込むことをしなかった。無茶とも言えるその行動には、焦りのようなものも滲み出ている気がする。他の者の感じているのとは違う、嫌な予感が頭を占めた。

、」
「い、嫌です、私、休みません」
「…そうではない」

 まだ何も言っていないと言うのに、声を掛けただけでこの様子だ。呆れながら否定をすると、ますます訝しげな視線を寄越した。…失礼な奴だと思いつつ、彼女の手を引く。「何ですか?」「町へ行く」「町?」「今日は非番だ、付き合ってもらう」そう言って無理矢理連れ出す。手を振り解かない辺り、「休め」以外なら従うらしい。

 向かった先は茶店だった。すっかり笑顔の減った彼女が、以前平助に連れて行って貰ったと喜んでいた店だ。店の前まで来るともそれを思い出したらしく、「あ」と小さく声を漏らす。店の中は混雑していたため外の席へ案内されたのだが、「今日は暖かいし良かったですね」とは言う。

「あれだけ皆が休めと言っても休まぬのだ。ならば甘いものでも食べて早く元のに戻れ」
「……分かりました」

 が何かを隠しているのは明白だった。それでも固く口を閉ざす姿は見ていて痛々しくもある。何を抱えているのか、何を思っているのか、それを聞くことすらできず、日に日に気落ちして行くをただ見ているだけ。落ち込む理由も、焦る理由も何も分からない。隠れて溜め息をついている所を見られているとは思っていないのか、必死で平静を装うには一種の危うささえ感じている。久しぶりの茶店で少し嬉しそうなを横目に見ながら、どうすれば頑なに語ろうとしない胸中を知ることができるのか、そればかり考えた。

「斎藤先生、ありがとうございます」
「いや…」

 それは何に対しての礼なのか。それを問うことすらできない。細い身体で抑え込まんとしているの隠し事は、恐らく少し突けば次から次へと露呈するのだろう。知りたいのなら脅しでもすればいい。けれどそれでは違う、を傷付けるのは本意ではないのだ。そしてすぐ隣に居るのに触れることすら憚られるのは、理屈では説明のつかない情。との間にはいつも僅かに距離がある。距離というほどのものではない、隙間だ。ただ、その隙間が酷く大きく埋めることができないのは、蝶と人だからか。その境を越えることはできないと、本能が警告しているからか。

「斎藤先生は死ぬのは怖いですか?」
「いきなり何を聞く」
「だって、斬り合いなんて日常茶飯事でしょう?私が斎藤先生と同じだったら、きっと怖いです」
「…あまり、考えていない」
「そうですか」

 湯呑みを置くと、はゆっくりと立ち上がる。そして簪を抜いて結われた髪を解く。風にの髪が流れるのを、ただ見つめた。

「私は幸せですね、斎藤先生」
「何故」
「なにゆえ……全て言うには、少し時間が足りません」

 俺を振り返るの表情は穏やかで、それは彼女自身の終わりを感じさせた。はここまでなのだと悟る。言わなければならないことはあるはずなのに、何も出て来ない。は首を傾けて少し笑うと、手にした簪を俺の手に握らせた。毎日忘れることなく挿していたそれは、いつか俺がに贈ったものだ。欠ける所どころか傷一つないそれを見て、いかにが大事に扱ってくれていたのかがよく分かった。

「総じて、少しでも斎藤先生と同じ人としての時間を過ごせたことです」
「もう、いくのか」
「蝶の寿命は短いですから」
「…、訂正する」
「何を?」
「俺は、俺が死ぬことよりも、が居なくなることの方が怖い」

 離れて行く手を掴む。俺を見下ろす目と視線が合うと、歪む表情。悲痛を浮かべて、ゆっくりと首を数回横に振った。

 はいつも言っていた。俺がして欲しいことは何なのだと。生きてここにいろと言いたかった。人としてここにいろと、言ってやりたかった。事実、それは無理なことだ。こうして離別の差し迫った今、そのようなことを願えば、それは叶えられぬとは心を痛める。の最期に傷を残したくなどない。それなのに、彼女がいなくなることが怖いなどと告げることが矛盾していることは、本当は分かっていた。けれどこれは願いではなく、考えを話したまで。屁理屈だと言われればそれまでだが、嘘をつくようなことはしたくないのだ。

「斎藤先生、先にいっちゃうこと、ごめんなさい」
が謝ることではないだろう」
「だって、結局何もできなかった。せっかく救ってもらったのに、斎藤先生に悲しい思いをさせてしまう」
「そう思うならもう泣きやめ。言っただろう、の笑っていることが俺の望みだと」
「はい…」

 乱暴に目元を拭い、真っ赤な目で笑って見せる。最後に流れた涙の一粒は音もなく地に落ちた。いつものように陽の光のように眩しく笑うと、の身体は砂になり、一瞬のうちに風に混ざって消えて行く。

 最初からはいなかったかのように、けれど不自然に空いた隣にはまだの影が残っているかのようだ。確かにの腕を掴んだ感覚はこの手に残っていて、の手の温かささえこんなにも覚えている。目の前で砂になって消えたの存在を証明するものは、最早物言わぬ簪だけとなった。夢と呼ぶにはあまりにも長く鮮明、現実と呼ぶには不確かで頼りない。自身、その狭間でいつも揺れていたのかも知れない。

 春に紛れてやって来た蝶は、春の終わりにまた季節に紛れるように飛んで行った。帰る地は東か、西か、北か、南か。叶うことならば、の帰る場所は自分で在りたかった。







(2011/1/23)