「…欲しいのか?」

 動かない背中にため息交じりで問えば、びくりと跳ねる肩。「違います!」と否定するが、まだ横目で先程まで目を奪われていたそれを見遣る。蝶とはいえ女子と言うべきか、陽の光を受けてきらりと輝く簪はの心を掴んで離さないらしい。

 食材が切れたとかで町にやって来たわけだが、少し目を離すとこれだ。足音が消えたと思って振り返ってみれば、店先に並んでいた簪を熱心に見つめる。思えばは適当に髪を結えているだけで、町ですれ違う女子をその度に目で追ってもいた。…つまり、羨ましいと。

「さあさあ帰りましょう!夕飯に間に合いませんよ!」
「し、しかしだな、」
「ちょっと見てただけですよ、斎藤先生だってしょっちゅう刀見て動かないじゃないですか!」
「な…っ」

 どこにそんな力があるのか、ぐいぐいと背中を押して帰路を急がせる。急がなくとも夕飯に間に合わないなどということはない。先程が見ていた簪なら然程高価なものではなく、刀のように求めにくいものでもないのだ。一度「恩返しだ」と言ってしまった手前、何かを欲しいと言い辛いのか知らないが、あれだけ熱心に見ておいてそれでも「要らない」と言われると、逆にこちらが気まずい。

「では他に欲しいものはないのか」
「ありません」
「…………」
「そういう下らないことは考えたって仕方ないですよ。それより、斎藤先生は私に何をして欲しいかを考えて下さいね」

 物欲が低い、というわけではないのだろう。空腹は訴えるのだから。総司に目の前に菓子をちらつかせられれば飛び付くその様は、蝶というよりどう考えても猫だ。総司も当然、突然現れたに違和感など抱いておらず、以前よりこのような仲だった、と言っていた。が現れてすぐにとはいつから仲が良いのだと聞けば、「頭でも打った?」などと失礼なことを聞かれた。

 …そのようなことはどうでも良い。些か心配なのだ、が何も欲しいと言わないことに。蝶だったとはいえ、今は一人の女子。叶えられるかどうかは別として、あれが欲しい、これが欲しいなどとが言った所を見たことがない。そうだ、さっきみたいに何かに目を奪われて立ち止まると言うことも一度もなかった。珍しくの欲しいと思ったものならば、やはり彼女に与えてやりたい、と思うのが自然な訳で、しかしそれを俺からに贈る理由は何も見当たらない。

「で、どうしたらが素直に物を受け取るかって?」
「い、いや、のことを言っているのではない、一般的に考えて、」
「いやいや、どう考えてものことでしょ。今日帰って来てから一君ももおかしいから」
「そのようなことは…」

 ない、と言えば嘘になる。総司相手に誤魔化せる自信もなく、言葉を繋げられなかった。

「総司のやった菓子はいつも受け取っているだろう」
は一君だけ特別扱いだから、何か貰うのは気が引けるんじゃない?この間は左之さんや平助に色紙貰ったり、新八さんにはお菓子貰ったりしてたし」
「…………そうか」
「ねえ、言おうと思ってたんだけど最近の一君気持ち悪いよ」
「…そうか」
「…そう言う所だよ」

 金額の問題ではないのだ。彼女が俺に何かをしたいと躍起になっているがために断った。それを分かっていても落胆してしまうのは、やはり俺だけが、という意識があるからだ。あれだけ斎藤先生斎藤先生と引っ付いておいて、甘えることの一つもしない。それはどこか寂しくもある。

 そう、何故あそこまでが俺に懐いているのかということも総司から聞いたわけだが、町で危険な目に遭っていたを俺が助けた、というあまりにも曖昧な認識だった。その認識は間違ってはいないのだが、その曖昧さを疑わない総司たちにも違和感を覚える。もしや長い夢の中なのかとも思ったが、巡察中に浪士と斬り合いになった時の感覚というのは夢とは思い難い。

「なんで一君がに贈り物をしたいのかって理由を話せば解決するんじゃない?」
「私がなんですか?」
「ああ、丁度良かった。が嬉しい時ってどういう時?」
「私が嬉しい時ですか?そうですね…」

 口元に手をやって悩む素振りを見せた後、俺を見て笑う。

「斎藤先生の嬉しい時が私の嬉しい時です」

 それがどうしたんですか、と訊ねて来るが、答えられる訳がない。そのようなことを隠しもせずに言えてしまうは見ていて恥ずかしい。いや、そのようなことを言われた俺はその何倍も恥ずかしい。周りに人が居ずともそうだというのに、ましてや総司の前でそれを言うかと抗議したい。しかしその抗議の言葉も出て来ない。何かおかしなことを言ったか、とでも言いたげにきょとんとするを軽くあしらうと、必死で笑いを堪える総司。

「…総司、いい加減にしろ」
「い、や、だってさ…!」
「総司、」
「あーごめんごめん。でも良かったじゃない、彼女よっぽど一君大好きだよ」
「だ…っ!?」
「っあははは!もうだめ一君何その顔…っ!」

 この際もう総司はどうでもいい。俺は再び屯所を出ると、先程が見ていた簪を置いている店へ向かった。上手く理由付ければ受け取ってもらえないということはないはずだ。このようなものを買ったことがない俺は緊張しながらも、入手すると早足で屯所へ戻る。恐らく今くらいの時間ならは自室にいるはずだ。真っ先にの部屋へ行くと、思った通り彼女はそこにいた。滅多に部屋を訪れない俺に驚きを隠せない様子で、声をかけると「ちょっと待って下さい!」と慌てた声で制止が入る。何やらがたがたと物を仕舞う音がしたかと思えばやがて静まり、そっと部屋の戸が開けられる。

「珍しいですね、斎藤先生」
「あ、ああ、少し話しがある」
「話?…とりあえずどうぞ。散らかってますけど」

 言われて通された部屋は当然散らかってなどおらず、強いて言うならば何か書き物をしていたらしい彼女の文机の上だけに物があった。そんな物の少ない彼女の部屋のほぼ真ん中に向かい合って座ると、は「どうしたのですか?」と当然の切り出し方をした。

「とりあえず、これを」
「へ?……だ、駄目です駄目です!貰えません私!」
「いや、これはあんたのだ」
「で、でも…!」

 頑なに拒むは渡した簪を返そうと差し出すが、その手を押し返す。困った顔をして何かを言おうとする。しかし俺も引いてやるつもりは毛頭ない。大体、買ってしまったからにはに受け取ってもらわないと使い道がない。いや、そもそもにと思って求めたものであって、彼女以外に受け取ってもらうつもりは最初からないのだ。それでも受け取ろうとしないは、恐らく必死に突き返す理由を考えているのだろう。

「あんたは先程、俺が嬉しいとあんたも嬉しいと言った」
「……言いました」
「それにいつも言っている。俺がにして欲しいことは何か、と」
「言ってます、けど」
「ならば、俺はにこれを受け取って欲しいと思う。がこれを手にして喜ぶ姿を見られたら、それが俺の嬉しいことだ」

 ここまで言うと流石に断る理由を全てなくしたのか、口を引き結んで俯いてしまう。そのような顔をさせたい訳ではないのだ。俺の言ったことに嘘はなく、俺はの喜ぶ姿を見たかった。いつも、どこか危なっかしいながらも「斎藤先生のためです!」などと言って笑って慣れない仕事を頑張るを、俺が笑わせてやりたいと思っていた。

「私、斎藤先生に恩返しするために人になったのに…」
「なら、その簪を挿して笑っていろ。それが俺の望みだ」
「本当に?そんなことでいいのですか?」
がそのように暗い顔をしていると落ち着かぬ」
「…分かりました」

 するとようやく簪を胸元で握り締め、小さく笑った。やはりにはそうやって笑っていて欲しいと思う。そんな彼女を見て、思わず俺も口元が緩んだ。そしていつもの調子を取り戻したは、何を思ったか「斎藤先生が挿して下さい」などと言い出す。「それは流石に…」「斎藤先生が髪を結ってくれて、簪を挿してくれたら、私、嬉しいです!」…も学ぶらしい。敵わないと思いつつ、期待の籠った眼差しで見つめられ、今度こそ俺の方がそれを拒否する理由をなくしてしまった。自分で逃げ道を塞いでしまったらしい。

 ただ、ふと頭を掠めるのは、いつまではここにいるのかということだ。ずっといるのだろうか、これからも。それともいつか別れが来るのか。それは近いのか、遠いのか。それを聞けずに、時間は止まることなく流れていた。





(2011/1/23)