あたしがこの人を好きなんだな、て自覚する時はたくさんある。例えば「おはようございます」って声が上ずった時。例えば顔を見て話ができない時。例えば突然会いたくなった時。理由はあれこれあるんだろうけど、やっぱり端的に理由を述べるとしたら“好きだから”の一つに限るだろう。それは何の抵抗もなくあたしの中にすとんと落ちて来て、納得できた。ああ、そっか、あたしはこの人が、好きなんだ。

 名前を呼ばれる度、目が合う度、ほんの少し指が掠める度、あたしの中で少しずつ育って行った気持ちは、いつか花を咲かせることはあるのだろうか。…なんて、日々考える。それを思えば胸がぎゅうっと苦しくなって、何かが詰まったみたいに声にするのが辛くなる。

「…、聞きたいことがある」
「はい?」
「茶が溢れているんだが」
「へ?あ、ひゃあ!!」

 指された手元を見れば、湯飲みのみならずお盆からもお茶が溢れていた。畳の上でなかったことが不幸中の幸いと言う所だろうか。不幸、不幸、不幸。斎藤さんにこんな失態を見られたことが最大の不幸だ。持って行くのが遅れて副長に大目玉を食らうよりも不幸だ。恥ずかしくて真っ赤になりながら、湯飲みから溢れてしまったお茶を処分する。急須の中身も殆どない。ああ、また作り直しか。

「悩みでもあるのか」
「悩みですか?」
「あんたがぼんやりしているのは珍しい」
「…斎藤さんはあたしを買い被りすぎだと思います」

 いかにもあたしが毎日しっかりしているような言い方に、思わず否定の言葉を入れる。斎藤さんはなんというか、口数こそ少ないけれど実はお世辞が上手いんじゃないかと思う(この間平助君に言ったら「そんな訳ねえ!」なんて言われたけれど)。だって、あたしがここに来て以来この人に叱られたりした覚えがない。大概、他の人には鈍臭いとかいろいろ言われるけれど、…いや、斎藤さんとは言うほど関わっていないせいもあるかも知れない。しかしその“言うほど関わってない”相手に気があるのは紛れもないあたしだ。

 そうしてまたいろいろと考えながら手を動かしていると、斎藤さんは「手伝う」と小さな声で言う。お茶くらい手伝われるほどのことでもないのだけれど、いつも仕事仕事でゆっくり話せない斎藤さんといる機会をみすみす逃すほど下心のない人間ではないのだ、あたしも。

「悩みと言えば悩み…なんですかね」
「そうか」
「あっいえ、大したことじゃないんですけど!」

 悩みの種でもある本人を前になんてことを口走ってしまったんだ。必死で取り繕ったけれど、斎藤さんはさして気にしていない、いや、あたしが焦った意味すら分かっていないらしく、「…早く解決するといいな」なんて言ってくれる。ほら、やっぱり斎藤さんは良い人なのだと思う。

 いつも通りちゃんとしたお茶を入れるのなんてあっという間だった。正確には殆ど斎藤さんがやってくれたに近い。そんなにあたしの手つきは危なっかしかっただろうか。これでもここへ来てからお茶を入れるのはずっとあたしの仕事だし、包丁のような刃物を使っている訳でもない。…もしかしなくても、斎藤さんなりの気遣い?悩みがある、なんて言ってしまったが故に。

「そ、それじゃあ副長の所に行って来ますね。ありがとうございました、斎藤さん」
「いや、いい。それより
「なんでしょう」
「不便があるなら言え」
「不便、は、ありませんけど…」
「そうか」
「はい」

 なぜいきなりそんな話になったか分からず、あたしは軽く首を傾げた。ここではやり過ぎなくらい良い生活をさせてもらっている。町にいるより余程安全だろうし、ここの人たちの世話をするはずが、逆に気を遣われていることもあるくらい。これ以上何かなんてとんでもない贅沢だ。一生分の運を使っている気さえする。

 すると、斎藤さんは不意にあたしから顔を背けて通り過ぎて行く。その背中に向かって再度「ありがとうございました」と投げかけると、ぴたりと止まる。かと思えば、またあたしを振り返って何か言おうと口を開く斎藤さん。右へ左へと視点が定まらず、悩む素振りを見せた後、ようやくあたしと目が合う。

「俺でよければいつでも話を聞く」
「え?」

 早口でそれだけ言うと、まるで逃げるみたいに去って行ってしまった。また気を遣わせてしまったかも知れない。嘘でも「悩みなんてありません」って言っておけばよかった。そう誤魔化せるだけの些細な呟きだったのに、斎藤さんは気にとめてくれたらしい。

 また胸が詰まる感覚がする。震える唇、掠れた声、熱を持つ頬。あたしの口を突いて出た言葉は、まだ湯飲みから昇っている湯気の中に混じる。

「あたしやっぱり、斎藤さんが好きだ…」

 膨らんだ蕾、それを花咲かせるためには、斎藤さんに自分の気持ちを伝えないといけないと気付いた。けれどあたしはいつか伝えられるのだろうか。隣に立つだけでこんなにも緊張させられてしまう相手に対して、好意を口にする日なんて来るのだろうか。

 でも、例えばあの人の目にあたしが特別な映り方をしたなら、こんなにも幸せなことはないと思った。あの人の手に触れられたら、もっと幸せだと思った。思い合えたならこれ以上ないほどに幸せだと思った。思う気持ちは純粋な所からやって来るのに、どんどん欲張りになって行くあたしは、きっと近い内に斎藤さんに気持ちを打ち明けてしまう気がした。

 好きです、ともう一度呟くけれど、今度は湯気さえ揺れないほど小さな声になった。















(2010/4/27)