ちゃん、と後ろから呼ばれ、はい、と振り向くと同時に口に放り込まれたそれを、条件反射であたしは咀嚼した。 「わ、あまーい!」 じゃなくて。 はっとしたあたしを、けれど沖田先輩は満足げに笑って見た。さっき口に入れられたのは真っ赤なイチゴだった。旬のイチゴの甘さが口いっぱいに広がって、食後のデザートとしては最高。…じゃなくて!沖田先輩が手に持っているタッパーには、まだいくつかイチゴが入っている。なぜ沖田先輩がイチゴなんて持っているのかは置いておくとして、なんだか嫌な予感がしなくもない。そんなあたしの予想は当たり、沖田先輩は二つ目のイチゴを持って既にスタンバイしている。二つ目も食べろと言うのだろうか、この人は。いや問題はそこではなくて、頂けるのはありがたいけれど食べ方に問題がある。 期待のこもった目であたしを見る沖田先輩に、だけどあたしは二度も同じ手にはかからない。先輩が突拍子でもないことをする人だっていうのはもう理解している。とりあえず言いたいのは、せめて場所を考えて欲しい。ここは生徒の行き交う教室前の廊下だ。こんな人目のある所でそんな真似、恥ずかしすぎる。先輩からしてみればペットに餌付けしているようなものでも、悔しいことに少なくともあたしが意識している。 「ほらちゃん、口開けて」 「…沖田先輩、どういうつもりですか」 「好きだったよね?」 「好き、ですけど…」 食べ方に問題があると思います。そう反論することもできず、あたしは視線を外して黙り込んだ。そんなあたしの口元にずいっとイチゴを近付ける沖田先輩。かぁっと顔が熱くなるのを感じながら、渋々あたしは小さく口を開けた。と、イチゴを押し込まれる。その時、沖田先輩の指が唇を掠めた。ほんの一瞬のことなのに、なぜかとんでもなく恥ずかしくなって、あたしは思わず勢いよく沖田先輩に背を向けた。心臓がどきどきし過ぎてイチゴの味も分からない。 さっきのは事故だ、いや、事故って言うほどでもない、ただ掠めただけ、掠めただけで触れると言うほど触れてもいない。そう自分に言い聞かせて落ち着こうとすればするほど、あたしの体は爪先から熱くなる。うるさい心臓を押さえて「落ち着け、落ち着け自分…!」と心の中で叫ぶ。沖田先輩だって掠めたことすら気付いてないかも知れないのだから。 (まさか、さすがの先輩でも触りたくて触った訳じゃ、………) そこまで思考が及ぶと、沖田先輩があたしの唇に触れるその様を想像してしまった。駄目だ、顔から火が出そう。ついでに頭が爆発しそう。あたしはそんな妄想癖のある人間じゃなかったはず。 「なに照れてんの?」 「て…っ!照れてませんっ!」 「ふうん?じゃ、続き」 「ま、まだやるんですか!?」 「もちろんだよ」 にっこり笑ってさらりと言う。タッパーの中のイチゴはあと五つだ。食べさせられる、ということもそうだけど、あと五つもイチゴを食べる気にはならない。既にお腹いっぱいのような気もする。そんなあたしなどお構いなしに早くも三つ目のイチゴを手に取る沖田先輩。 前に「ちゃんって沖田先輩に好かれてるよね」なんて千鶴ちゃんに言われたことがあるけれど、これは果たして好かれているの内に入るのだろうか。あたしにはどう考えてもおもちゃ(つまる所あたし)で遊んでいるようにしか思えない。惜しみなく図られる過剰なスキンシップにはあたしの身が持ちそうにない。あたしはこんなにも意識してしまうのに、先輩はいつも同じように笑っていて、悔しくて悔しくて悔しいのに、なのに、どこか嬉しいと思ってしまう自分がいたり、後ろから「ちゃん」って呼ばれるのを待っている自分がいる。…やっぱりあたしは沖田先輩に対して被虐嗜好があるのかも知れない。 「口、開けて」 「…それで、最後ですよ」 「そんなに嫌?」 「嫌、というか、あの…」 「ああ、僕の分なら良いんだよ。まだ家にあるし」 「そういうことじゃな、っ!」 叫んだ隙をついて放り込まれた三つめ。しまった、と口を押さえて声にならない叫びを上げれば、沖田先輩は喉を鳴らして笑った。「隙だらけだよ」なんて、必死に笑いを堪えながら言う沖田先輩は本当にいじめっ子だと思う。懲りずに罠にはまるあたしもあたしなのだけれど、さっきの不意打ちはやっぱり卑怯だと思う。 一旦口に入れたものを出す訳にも行かないので、三つ目のイチゴもしっかり頂くとして、あたしはまだおかしそうに笑っている沖田先輩を睨んだ。あたしが睨んだ所で何の効果もないことは分かっているけど、ここまでされてあたしも黙っている訳にはいかない。…いや、いつもに比べたらやってることは多分、大したことはない。でもいつも以上にどきどきさせられて、そろそろあたしだって仕掛けても罰は当たらないと思う。 「…沖田先輩」 「なに?」 「あたしはもう三つもらったんで、残りは自分で食べて下さい」 「嫌だ、って言ったら?」 「…………」 「ちゃん?」 駄目だ、いざとなったら言えない。それよりよく考えれば、いや良く考えなくても、あたしはとんでもないことを言おうとしているんじゃないだろうか。少しずつ熱の冷めて行く頭で我に返った。 もう何もかも見透かされているんじゃないだろうか。あたしがなぜ口を噤んだのか、あたしが何を言おうとしてるのか、あたしが何をしようとしていることも。けれど、何か期待するようにあたしを見る沖田先輩と目が合って、引き返すことはもうできないのだと気付く。そうして何度か言いかけて口ごもるけれど、あたしは沖田先輩にしか聞こえないような声で途切れ途切れに伝えた。 「…あ、あたしが、一つ、沖田先輩に食べさせるので、」 「うん」 「え…と、あの、…さ、察して下さいよ!」 「あーあ、惜しいなあ。あとちょっとだったのにね」 「な…っ!」 「そうだなあ、二つならその条件呑んでもいいよ」 ちゃんと最後まで言ってくれたら一つでもよかったんだけど、とあたしの顔を覗き込んで笑う。いきなり近付いた距離に身を引こうとすると、腕を掴んでそれを阻まれる。そしてイチゴの綺麗に並んだタッパーをあたしに差し出し、「食べさせてくれるんでしょ?」。いや、確かに言ったけれど、二つ食べさせる、という方の条件はあたしはまだ呑んでいない。 一つ。二つ。一つ。二つ。不毛な言い合いが続き、埒が明かない。もうあたしが折れるしかないんじゃないだろうか。沖田先輩が大人しく折れてくれる訳がない。きっと沖田先輩もあたしがもう間もなく折れることを予測しているに違いない。悔しいけれどその通りだ。あたしが先輩に叶うはずがないのだから。仕掛ける前からそんなことは分かり切っていたのに、あたしは本当に馬鹿だと思う。 とうとうあたしが「仕方ないですね」と小さい声で言うと、沖田先輩はあたしの手にタッパーを持たせた。そして一層楽しそう「じゃあ、よろしく」といつもの調子であたしに笑いかける。コトがコトじゃなかったら今の沖田先輩の笑った顔なんて素敵なのに、今は複雑な心境が半分混ざっている。しかし今更引き返すこともできない。あたしはイチゴを一粒手に取り、沖田先輩があたしにしたようにイチゴを口元に近付ける。 「…どうぞ」 「急に愛想悪いなあ、ちゃん」 「は、早く食べて下さいっ!」 耳まで熱くなる。もうどうにでもなれと沖田先輩を急かせば、「はいはい」とおかしそうに笑う。そしてあたしの手首を掴んでイチゴを口に含む。…今なら顔から火が出せる気がした。間が持たないので、取って付けたみたいに「お味はどうですか」とテンプレートな質問を投げかける。思いの外低い声が出たのは、今なら何を話した所で声が上ずってしまいそうだからだ。 「別に?普通だよ」 「あ、そですか…」 そこはお世辞でもおいしいとか言っておく所ではないのだろうか。乾いた笑いを漏らしながら、最後の一つをさっきと同じように手にする。これで終わりだ。終わったらすぐに教室に戻ろう。これ以上沖田先輩と話を続けられる自信があたしにはない。特に最近は沖田先輩にいいように転がされているような、振り回されているような、そんな気がしてならない。 察しの良い先輩のことだ、あたしがこんなにどきどきする理由だってとっくに知っているんでしょう?先輩があたしの前に現れたら本当は嬉しいことだって、話しかけてもらえることも、構ってもらえることも、本当はいつだって待っていることを知っているんでしょう?…だったら、沖田先輩はすっごくずるい人ですね。平気な顔して、知らないふりしてあたしに接する。でも、それでもあたしが沖田先輩を嫌いになる訳がなくて、憎たらしいくらい好きになって行くのに。 そうもやもやと悩みながら、イチゴを差し出そうとすると、「でも」と沖田先輩は付け足す。 「ちゃんが食べさせてくれるんだから、おいしいかな」 「なっ!って、あっ!」 「あーあ…」 やってしまった。思いもよらない沖田先輩の言葉に、イチゴをぐしゃりと潰してしまった。手のひらまで伝うイチゴの果汁。まさか潰れたイチゴを「はいどうぞ」なんて渡せるわけがない。かと言って捨てるのももったいないし、自分で食べることにするのがいいだろう。そしてベタつく手を早く洗いに行こう。早くしないと昼休みも終わってしまう。 けれど、あろうことか沖田先輩は再びあたしの右手を掴み、潰れたイチゴをあたしの指先ごと口に含んだ。一瞬停止するあたしの思考。そして次に沖田先輩と目が合って、あたしは我に返る。勢いよく掴まれた腕を振り払って右手をぎゅっと握り締めた。 「お、おおお、おきたせ…っ!」 「ん?」 「ゆ、ゆ…っ」 「ああ、指?イチゴついてたし、甘いかと思って」 「そんなわけないです!」 信じられない。もう、本当にこの人は一体あたしをどれだけ惑わせるつもりなんだろう。あたしをどこへ連れて行くつもりなんだろう。あと一年以上同じ学校で過ごすと言うのに、このままじゃあたしのメーターが振り切れてしまう。いつかどこかで爆発でもしちゃうんじゃないだろうか。 多分、これまでで一番真っ赤になっているだろうあたしの顔を覗き込む沖田先輩。後ずさろうとすれば腕を掴まれてそれも阻まれる。至近距離でにっこり笑って、「そんなわけあるよ」と言ってのける。いちいちあたしの心臓を速めることばかり言う先輩は、本当に本当にずるい人。あたしが一生かかっても勝てない人。もうそろそろ、あたしは無意識の内に好きだって口走ってしまってもおかしくない。むしろ口車に乗せられてうっかり言ってしまいそうな気がしてならない。 「思ったとおり甘かった」 こんなことを言うんだもの。 |