いつもは剣を握り、血を浴びる腕が、一定の温度で以て私の手に触れ、輪郭をなぞる。その不思議な感覚に、私は堕ちて行くのを感じる。ああ、でもこの人とならどこへでも落ちて良い―――そんな風に狂気じみたことすら思うようになったのもまた、この人のせいに外ならない。まるで壊れものを扱うかのように私の頬を撫で、鼓膜を震わす声で囁くのだ。、とあの甘い声で。その瞬間、私の身体は私のものではなくなる。この人の言うことだけを聞き、この人の思う通りになる。心はここにあるのに、私の意思など関係なくただこの人のための私になる。

 冷えた身体を抱き寄せられて、肩越しに丸い月を見る。穴を空けたかのように真っ暗な中に浮かぶ月は、私たちの逢瀬を堂々と覗き見ているようだった。潰されそうなほどの力で抱き締めていた腕を解き、彼は不意に問う。


は僕が怖くないの?」
「怖い…?なぜ?」
「新選組の沖田総司に近付きたがる人間なんてそういないんだけど」


 苦笑いをしながら髪を撫でる手は、いつもより優しい気がした。このところ彼は、そんな風に笑う。困惑と悲しみの間で揺れる表情を見せる。私はどうすれば良いか分からず、ただ小首を傾げた。ともすればこの手の中からすり抜けて行きそうな彼を引き止める術を、私は知らない。だから、知らない振りをすれば、気付かない振りをすれば、馬鹿な私のために彼はここに居てくれる気がした。「は僕が居ないと駄目だね」と言ってくれれば、もう私を手離さずにいてくれる気がした。私は彼が思っているよりは狡猾だ。最初は彼を手に入れるためにどうすればいいか、そして今は手離さないためにはどうすればいいか、自分のためを思って必死に考えている。それとも勘の良いこの人のことだ、そんな私の一面などとうに見抜いてしまっているのだろうか。


「私はただ総司さんの傍に居たいだけです。他には何も関係ないわ」
「君って本当、変わっているよね」
「総司さんもでしょう?」
「まあ、そうかもね」


 額と額を合わせて笑い合う。中身があるのかないのか分からないような応酬を繰り返し、何をするでもなく過ごす。緩やかに流れて行く時は、けれどあっという間に過ぎて行く。ただこうして触れ合っているだけで満たされるなんて時期はとうに過ぎた。触れれば触れるほど、際限なく欲しくなってしまう。けれど彼はどこまでを私にくれるのだろうか。どこまでを許し、どこまで委ねてくれるのだろうか。私は何もかもをこの人に明け渡しても良いとさえ思うけれど、きっとこの人は違う。だから一層欲するのだ、彼の全てを。指を絡めても、額を合わせても、身体を重ねてもなお、手に入らないものがある。心の全てだけは一生かかったとしても決して私のものにはなってくれない。満ち足りることがないからこそ、どこまでも求め、手を伸ばしてしまうのだろうか。足りないくらいが丁度いいとは言うけれど、それでも足りない虚しさを埋められるのもまた、この人しかいないのに。


「ねえ、私が怖いのは総司さん自身ではないの」
「じゃあ、何?」
「総司さんの目に私が映らなくなることが怖い」


 私もそっと腕を伸ばし、彼の頬に触れてみる。外気に晒され冷えた頬に、私の指先の熱はどんどん奪われて行く。彼に温められた指が冷えて行く。私の熱が彼に移りゆくことはないらしい。とは言え、大して冷えている訳でもないのに、まるで凍ったかのようにかじかむような感覚を覚える指先。彼の返答への恐れが、そこにさえも表れている気がした。震える親指で彼の目元をなぞると、逆に手首を捉えられる。そして熱を失った指先に彼は唇を落とすと、私を見下ろして口の端を持ち上げた。

 ぞくりと、背筋を何かが駆け上がって行く。彼がこんな風にわらう時は、いつも何かを仕掛けようとしている時だ。愚かな私はそれに期待をしつつ、逸らしたくても逸らせない双眸をじっと見つめた。


「他の人が僕の目に映るとでも思ってる?」
「有り得ない訳じゃないでしょう?」
「疑心暗鬼なも可愛いけど、それじゃ信用されてないみたいだ」
「だって不安なの」


 ようやく目を逸らすことのできた私は、斜め下へと目線を下げる。視界の端で彼が小さく笑った気がした。…信用している、していないの問題ではないのだ。ただ、いつ訪れるか分からない別れを思えば、誰だって泣きたくもなるだろう。何かを失ってでも繋ぎ止めて置きたいと思うほどの相手に、いつか突き放されてしまうのではないかという不安は、きっと消えてくれることはない。何にでも表と裏がある、それは出会いや思い合うことも同じだ。いつしか別れが私たちを引き裂き、思いは薄れて行く。今は全てを失っても構わないと思っていても、もしかするといつかは躊躇うのではないか―――それすら私にとっては恐怖になる。これからも彼が私の中で一番に思う相手であって欲しいのに、自分のことですら明日はどうか分からないのだ。何年、何十年と遠い話ではない。明日は、明後日は、そんな目先のことだって何一つ確かなことなどないから。


「じゃあ大丈夫だ」
「なぜ?」
「僕も不安だからだよ。僕もも同じ不安を抱えている。だから大丈夫だ」
「…分からないわ」
「分からなくても大丈夫」


 まるであやすように私の頭を数回撫でる。するともう、あの揺れた笑みは彼から消えていて、ただ私を愛しいという気持ちが指先や表情から伝わって来る。その心地好さに浸りながら私は目を閉じた。





逢うた夢みて笑うてさめる あたり見まわし涙ぐむ





 重い瞼を持ち上げれば、私は一人、真っ白い布団の上にいた。隣には何の温度もない。一人、冷えた布団に包まっていたのだ。ゆっくりと起き上がってみても、小さな部屋には私しかいない。


(ああ、私は一体…)


 一体いつまで、あの人の影に泣かされなければならないのだろう。とうの昔に終わったはずの恋だった。あんなにも、身を削るほどに恋い焦がれた日々だったのに、今ではもうこんなにも遠く感じるほどに。それでも毎晩のように夢に出て来るあの人を、どこにいても探さずにはいられない。突然に姿を消したあの人を私は今も追い求め、忘れた日など一度としてない。それは一重に、あの頃からほんの少しも変わりなく彼を思っているからなのだと、それは決して幻想などではないのだと信じて良いだろうか。そして、あの夜と同じように、困惑と悲しみに揺れる笑みを浮かべながら私の元へ現れてくれるいつかを、今もまだ夢見て良いだろうか。

 たった一人になってしまった部屋の真ん中で、私は少し泣いた。






(2011/11/26 艶歌さまに提出させて頂きました)