「……珍しい」


 日差しも柔らかな昼下がり。ふと斎藤さんの部屋を覗いてみると、この陽気にさすがの彼も勝てなかったらしく、壁に凭れて居眠りをしている彼がいた。これは今から雹が降るか槍が降るかと、微笑ましいを通り越して一種の恐ろしささえ感じる。極力、足音を立てないようにしてそっと斎藤さんに近付く。それでも一向に起きる気配はなく、ゆっくりと膝をついてその顔を覗き込んだ。

 毎日隊務が忙しく、碌に休息もとれていないのだろう。文机の上の書類が、入りこんだ風でかさりと揺れるが、普段の彼であれば物音がすれば起きると言うのに、斎藤さんの瞼は持ち上がらない。そしてもう一つ彼にしては珍しく、文机の上が散らかっている。土方さんの机の上が書類で散らかっているのはいつものことなのだが、斎藤さんがこんな風に放り出したまま居眠りなんて。


(きっと本当に疲れているのだわ…)


 けれど、寝顔まできれいだと思った。私なんて、どれだけ手入れをしても髪は伸びるほどに痛む。元々、手で梳いても流れるようなそれではない。斎藤さんは、多少癖はあれど指をでも通せばすり抜けて行く。肌だって少し無理をすればすぐに荒れてしまうのに、私よりたくさん働いていて、毎日同じものを食べていると言うのに、どうしてこうも違うのか。

 悔しさと劣等感と、けれど愛しさがじわりと胸の中に広がる。すとんと落ちて来る、好きなのだと言う気持ち。それに気付けば、私の身体は吸い寄せられるみたいに、斎藤さんとの距離を詰める。どくんどくんと五月蠅く鳴る胸、握り締めた震える手、ぎゅっと目を瞑り、ごくりと生唾を呑み込んで、風で揺れる長い前髪の隙間から覗く額に、触れるだけの口接けをした。


(……って、私は一体何を……!)


 何か血迷ったことをした、と慌てて後ずさるが、やってしまったことをなかったことにはできない。口を覆ってすぐさま部屋を出て行こうとした。このままでは斎藤さんが起きてしまう、その前に何としても退散しなければ。いや、しかし斎藤さんが覚えていないにしろ、斎藤さんに会うたびに自分がたった今してしまったことを思い出してしまう。恥ずかしくて仕方がない。何でそんなことをしたのか、自分でも分からない。ただ、何となく、ふと、そうしたいと思ってしまったのだ。

 踵を返し、その瞬間、ぐいっと後ろから右手を掴まれる。反動で後ろに倒れそうになるが、想像した背中への衝撃は来ない。代わりに、温かい温度が身体を包んだ。回された腕を確かめて、斎藤さんが起きてしまったのだと理解しする。


「お…起きられた、の、ですね……?」
「正確に言えば、が部屋に入って来た時から起きていた」
「な…っ、酷い!」
「何がだ?」


 斜め上を剥いて恥ずかしさでいっぱいのまま抗議するも、斎藤さんは面白そうに喉を鳴らしながら、簡単に私の顎を捉える。そのまま、さっき私がしたみたいに前髪を掻き分けて、額に口接けられる。首が痛いと身体ごと反転させれば、優しい力で身体を包み込まれた。反論する言葉が見つからなくて、私は口を尖らせたまま黙った。

 斎藤さんには振り回されてばかりだ。ちょっとした仕草に動揺したり、少しの言葉に熱を持ったり、赤くなったり恥ずかしくなるのはいつも私。悔しくて悔しくて、でもやっぱり思い慕うのはこの人だけで、本当に、悔しい。悔しいのに愛しい、相反するこの気持ちを、何と言えばいいのだろう。どんな言葉を使って表現すればいいのだろう。言葉と言うのは時にあまりにも無力だ。私の抱えるこんな気持ち一つ、上手に斎藤さんに伝えることすらできない。


(だから、なのかな)


 だから、さっきもまるで悪戯をするみたいに、斎藤さんに口接けたのかも知れない。言葉でどうしても足りない部分を補うために。…それも彼が起きていなければ何の意味もないのだけれど、生憎と起きていらっしゃったようだ。ささやかな悪戯はすぐさま暴かれてしまい、結局は私が恥ずかしい思いをする。


「斎藤さん」
「何だ」
「あんまり意地悪したら、嫌いになっちゃいます」


 言いながら、斎藤さんの背中に手を回す。斎藤さんに負けないくらいの力を、と思い、ぎゅっと抱き締めた。すると、くすりと笑う吐息が耳にかかる。擽ったくて思わず身を捩るけれど、動きを封じるみたいに斎藤さんは一層私を捉える腕に力を込めた。その苦しさに私は手を緩めてしまうけれど、斎藤さんが離してくれないから離れる訳もない。「ちょっと、」「」私の言葉を遮り、名前を呼ぶ。…この声が好き、この声に名前を呼ばれるのが好き、この声に優しい言葉を掛けられるのが好き。何よりも、この人が好き。


「そんな顔で言われても、説得力がない」


 耳元で低く囁かれたのは、私の心の全てを見透かした言葉。胸がきゅうっと苦しくなって、返す言葉が見つからなくて、私は震える瞼を伏せ、またゆっくりと背中に手を回す。悔しくても、振り回されても、結局はこの腕の中が心地好いことに変わりはない。私を支えてくれる大きな手に安心することも、言葉一つにどきりとすることだって。愛しい、愛しい、と何度も心の中で繰り返す。どうやら、今の私にはそれ以上の言葉は見つからないらしい。








隠し損ねた心の底






(2011/5/1 唇愛さまに提出)