好きで好きでどうしようもないこの気持ちを、何に例えようか。花が咲き誇る様か、雲ひとつない澄んだ空か、足跡のないまっさらな雪の上か。いや、どれもしっくりと来ない。恐らく、こう言われた方がぴたりと当てはまる。

 底のない沼のようだと。








受話器









 どうして私だったのか、なんて今でも分からない。だって私は平平凡凡な、その辺にいるような女子生徒だ。それに引き換え、はじめ君は整った容姿だけでなく、成績も良ければ部活も熱心、委員会にも所属していたりと、所謂“優等生”の典型みたいなもの。まあ、付き合いが長くなればただ良い子してるだけじゃないことくらいは分かって来るのだけれど。

 そんなはじめ君に私が抱いたのは憧れ、後に恋心。けれど当然、周りは敵だらけだ。ただ追っかけのような大勢のファンから、私と同じように恋愛対象として彼を見ている子は少なからずいた。私がはじめ君とクラスメートだからって有利なことは一つもなくて、目立つ訳でもない私とはじめ君に接点などないに等しい。クラスメート、ただそれだけ。

 彼に好意を告げられたのは突然だった。何かの罰ゲームか、からかっているのか、夢でも見ているのか。自分を最大限に疑ってみたけれど最終的にはどの疑いも見事に晴れて、これは現実なのだと思い知る。そうしてはじめ君の彼女という存在になって知ったのは、劣等感と嫉妬、そして独占欲だった。いつだって不安に苛まれる。私で良いのかと、本当に私なんかで良いのかと。だから、この一言は必然だった。


「嘘かも知れない」


 二、三度のコールの後、いつもと変わらない様子で「文香か」と言ったはじめ君に、私は何の前触れもなくそう零した。受話器の向こうにいる彼は、何の事だと眉根を寄せて怪訝そうな顔をしているのだろう。その表情が容易に想像できて、自嘲的な笑みを浮かべる。


?」
「ずっと、はじめ君を好きだと思ってた。でも違う、私とはじめ君は違う。私はただ好きでいられるくらい、きれいじゃない」


 沈黙。時計の秒針だけがやけに大きく部屋に響く。言葉よりも行動で示す彼のことだ、きっと私にどんな言葉を返せばいいのか悩んでいるのだろう。私が何を思ってそんなことを言うのかを推し量ろうと、顔も見えない受話器越しに必死に考えてくれているのかも知れない。そんなはじめ君に追い打ちをかけるかのように、私は「ごめんね」と一言だけ残して通話終了ボタンを押す。ツー、ツー、という電子音が耳に流れて来れば、次に流れるのは両目からの冷たい水。

 私が発する言葉も、向ける視線の先も、伸ばす両手も、両手では抱えきれないほどの様々な気持ちも、全部はじめ君だけのものになればいいのに。はじめ君の持つ幸せの全部が私で溢れていればいいのに。そうすれば誰とも比べなくていい。互いが互いだけになれば、もう不安になる要素なんて何もないから。

 そう思うほどに、もうはじめ君は私を象る核となっている。はじめ君がいなければ成り立たないと、どんな感情も埋められないと。けれどそんな私の気持ちを伝える上手な言葉を私は持っていなくて、断片的に言葉が零れ落ちて来るだけ。そのどれもが汚い。最後に一つ残る言葉が「好き」なのだとしても、それを取り巻く構成要素はあまりにも汚いのだ。それを知った上で、見透かした上ではじめ君はまだ私の傍にいてくれるのだろうか。これほどまでにどうしようもない私でも、それでもまだ。

 力無く右手から滑り落ちた携帯が、着信によって震える。ディスプレイには“斎藤一”というこの世で恋しいただ一人の名前。躊躇った後に、通話ボタンを押してゆっくり携帯を耳にあてがう。はい、と涙声で応答すると、「…俺は、」とはじめ君も躊躇うような、迷うような口調で切り出した。


「俺は、きれいであることだけが全てではないと、思っている」
「…………」
がどれだけ悩み、さっきのことを言ってくれたかは知らない。気付けなかったことは申し訳ないと」
「ち、違…」
「間違うことも、遠回りも、悪いことではない。俺もも、まだ何回でもやり直しは利く」


 そこにいる訳ではないのに、私を抱き締めるかのようかな言葉に、それまで控えめに流れていた涙はぼろぼろと溢れ出す。はじめ君の言葉に呼応する私の気持ちは大きく揺れて、黒く渦巻くだけだった世界に、ふと一筋の微かな光が射し込んだ。差し伸べられた手を取りたい。その腕を掴みたい。こちら側へ引き込むほど私が汚くても、どうかはじめ君には私の手を離さないでいて欲しい。今この強さのままで私を抱き締めていて欲しい。

 どれだけ経っても消えない劣等感はあるのだろう。どれだけ傍で過ごしても消えない不安はあるのだろう。けれどその度、はじめ君はきっと私をぎゅっと抱き締めてくれる。汚れた黒い感情を剥き出しにしても、全て晒しても、今日みたいに私を受け止め、包みこんでくれる。…それは、確信であり願望だ。きっとそうに違いないと思う半分、どうかそうであって欲しいと強く願う。まだ弱く脆い私は、はじめ君に縋るしかできないから。

 しゃくり上げながら「ありがとう」と伝えてもなお、泣き止むことができない。悲しいからでも、苦しいからでもない、はじめ君の言葉に私はようやく少し安堵を覚えたからだ。それでもまだ言い表すことすらできない感情を消すことはできないけれど、はじめ君しか見えない今の私も、はじめ君しか宥めることのできない私も、はじめ君しか要らないと思う私も、いつかは「そんなこともあった」と愛しく思えるように、祈るみたいにそっと瞼を閉じた。




















(2011/3/10 song by ハナレバナレ/シギ)