「今日も美味しそうだね、ちゃん」
「なっ!?」




 お弁当の蓋を開けた瞬間、耳のすぐ傍で聞こえた声。文字通り飛びあがって振り向くと、派手な音を立てて椅子が倒れた。一瞬、教室はしんと静まり返ったが、「…すみません」とクラスメートに謝るとまたすぐに元の騒がしさを取り戻す。それから改めて原因となった人物を振り返った。

 沖田先輩、と引き攣った笑いをしながら呼べば、「ん?」といつもと変わらない満面の笑みで返す。そんな笑ったって今日こそは騙されないんだから!…と思いつつ、日常茶飯事であるはずの突然の出現に、あたしの心臓は既に早鐘を打っていた。そう、沖田先輩がこのタイミングで現れるのはいつものことだ。今日こそは、と何度覚悟しただろうか。それなのに、慣れるどころかどこから現れるか予測不可能な沖田先輩にはどきどきさせられっぱなしだ。




「あの、せめてもう少し普通に現れることはできないんですか?」
「だってちゃん、いつもいい反応返してくれるから飽きないんだよね」




 まるで面白いおもちゃでも見つけたかのような口ぶりだ。こうやってあたしで遊ぶことがこの人の日課なのだろうかと思ってしまう。毎日喧しくしてしまうので、いつもお昼を一緒してる千鶴ちゃんには非常に申し訳ない。今日は偶然席を外していて被害を被らずに済んだけれど、あたしといると千鶴ちゃんまで注目の的となってしまうので、一度は二人で別の場所に避難したことがあった。けれどあの時の沖田先輩の仕返しと来たら、…一生忘れられないと思う(詳しく説明しない当たりは事情を察して頂きたい)。

 沖田先輩はいつも違う手口であたしを驚かせにかかって来る。座ろうとしたら椅子を引かれたり(尻餅をつきかけたのに抱きとめられた)、後ろから髪を引っ張られたり(体育の後で束ねたままだった)、卵焼きを口に入れようとしたらいきなり腕を引っ張られてとられてしまったり(その箸を使うかどうかは非常に迷った)、今日みたいに耳元で囁かれたり。ちなみに、当然だが最後のが一番心臓に悪い。あたしは耳まで熱くなりながら抗議した。




「だからと言ってみ、みみ、み…!」
「ああ、ちゃん耳弱いんだっけ」
「ひゃ…っ!」




 「だっけ」、じゃない!言った傍からそんな所で喋らないで下さい!

 言葉にならなくて心の中で盛大に叫んだ。ぱくぱくと魚のように口だけ動かしてみるものの、千鶴ちゃんがいないのをいいことに後ろから抱きすくめられる状態になっていて、あたしはもう固まるしかない。クラスメートが見ない振りをしてぎこちなく騒がしい教室を続けていることが逆に辛い。沖田先輩は上級生なんだし、助け船を出してくれる人はいなくて当然なのだけれど。

 もしなんとか口出しできる人物がいるとすれば藤堂君、なんとか助けだしてくれるとしたら斎藤先輩くらいではないだろうか。けれどいない人を求めても仕方がない。「いいいいい加減離して下さいっ」とどもったり声が裏返ったりしつつ、精いっぱい抗議の声を上げる。しかしあたしの声なんてまるで無視で、「あ、その卵焼き美味しそうだね」と遠まわしに要求されてしまった。しかも卵焼きなんて毎日入れているのだし今更なのだけれど。




「…どうぞ」
「あれ、いいの?」
「駄目だって言っても持って行くのが沖田先輩でしょう…」
「傷付くなあ。ちゃん、僕のことなんだと思ってるの?」




 大層意地悪な先輩ですけど!と、叫んでやりたい。あたしは卵焼きをとると、その箸を沖田先輩に向けた。前に箸を渡したら「君が食べさせてくれるんじゃないの?」なんてさらっと言ってのけたのだ。それ以来お弁当のおかずをねだられるとこうしてあたしが沖田先輩に食べさせてあげてる、という図ができあがるのだが、あたしは一体沖田先輩の何だというのだろう。

 沖田先輩があたしをからかうのが好きだということはよく知っている。浮いた話の一つも聞かないから、誰か女の子から恨まれたりすることもないだろう。ただ問題はあたしの気持ちの方でして。こういうことをされる度に期待が膨らんでしまうことを、沖田先輩は分かっているのだろうか。分かっていないのも問題だけど、分かっていてやっているならもっと問題だ。

 まだ熱を持つ顔を左手で扇ぎながら携帯を見た。…千鶴ちゃんの帰りが遅い。先生に捕まっていたりするのだろうか。




「そう言えば、沖田先輩はお昼ご飯は?」
「いつも購買で買ってるよ」
「栄養偏りますよ?」
「じゃあちゃん作ってくれる?」
「………は?」




 間抜けな声が出た。いや、この人今、さらりとなんて言った?この過剰スキンシップの上にお弁当だなんてどう考えても…、と思うと下がりかけていた熱がまた急上昇する。けれど、そんなあたしを置いてきぼりにしながら、沖田先輩はどんどんと話を進めて行ってしまった。




「だって土方さんの分も毎日作ってるんでしょ?」
「いやだってあの人は兄ですから!兄妹ですから!」
「一人分くらい増えても構わないよね」
「構います!って、あたしの話聞いてます!?」
「栄養偏るって言ったのちゃんだもんね?」
「う…っ」
「なら責任とってもらわないと」




 余計なこと言うんじゃなかった。いや、余計なことではないのだろうけれど、まさかこんな風に揚げ足を取られるだなんて、誰も予想できなかったはずだ。

 沖田先輩は飽くまであたしが首を縦に振るのを待っている。それ以外許さないというような、それ以外認めないというような、若干脅迫めいた雰囲気が漂っていなくもない。「あー」だの「えー」だの、返事をしかねていると、沖田先輩はあたしの頬に手を当てて微笑んだ。思わずどきんと心臓が跳ねる。そしてそのまま喧しく鳴って止まらない。




「僕もちゃんのお弁当食べたいなあ」
「それは…っ!」




 そんな風に言われたら「分かりました」と言う以外ないじゃないか。思っている人にそんなことを言われて、あたしが断れる訳がない。けれどなんだか全部沖田先輩にしてやられているのが悔しくて、「口に合わなくても文句言わないで下さいよ」と小さな声で返す。可愛くないとか、そんなことは分かっている。でもここで大人しく返事をするのはどうもあたしらしくない。きっと沖田先輩だって、素直に「はい分かりました」って返事するあたしを期待していない……と、思う。その証拠に、沖田先輩はあたしから手を離すといつもとはちょっと違って、なんとなくだけれど嬉しそうに笑った(気がする)。




「君の作ったものが僕の口に合わないはずがないよ」




 さっきといい今といい、なんて殺し文句ですかそれ。二枚も三枚も、いや、下手をすれば五枚も六枚もあたしの上を行く沖田先輩には、まだまだ暫くは振り回されそうだと思った。










でも、きなんです。






、なんで弁当が三つなんだ」
「え、いや、それは、……気にしないで!」
「…、」
「はい…」
「正直に言え、誰の分だ」
「…お兄ちゃん、絶対に怒らない?」
「分かったから早く言え」
「あ、あの、ほら、実は…」





(2010/4/14 沖田先輩ごめんなさい!)

随想録移植決定企画!お題はお弁当でした。