斎藤君の風紀委員張という権限を最大限に活用して、高校生活で初めて、私は屋上に上がった。出入り禁止で鍵の掛かっている屋上には、一般生徒は普段、入ることは許されない。けれど、最後の思い出にどうしても、と駄目もとではあったけれど頼み込んでみれば、意外と斎藤君は承諾してくれたのだ。 「疲れたぁー!」 両腕をぐっと空に向かって伸ばすと、後ろから呆れたような声が聞こえて来る。寝ていたのか、と溜め息交じりに言われるが、残念ながら寝てはいない。けれど来賓のあいさつだとか、PTAの挨拶だとか、そういうのはただの眠気の材料にしかならない。欠伸を噛み殺して必死で寝ないようにはがんばっていた。というのも。 「かっこよかったよ?」 「何がだ」 「斎藤君の答辞。ちゃんと聞いてたから」 「…そうか」 あ、照れてる。ふいっと目を逸らしてどこか居心地悪そうにするのは、斎藤君が照れている証拠だ。三年間親しいクラスメートをしていれば、それくらい分かるようになる。授業中に先生に当てられて一度も答えを間違ったことがないこととか、いつも定期試験はすっごく成績が良かったこととか、部活に委員会に勉強の三つともを頑張っていたこととか、努力を惜しまないところとか、私はクラスの誰よりも近くで斎藤君のことを見て来たつもり。いつからか自然と目で追うようになっていた相手も、斎藤君だ。 「明日から寂しくなっちゃうね」 「は部活が残ってなかったか」 「そうじゃなくて、もう同じ教室で授業を受けられないでしょ?寂しいなあって」 卒業式では泣けるに泣けなかった。一字一句漏らすまいと斎藤君の答辞に耳を傾けていたけれど、泣いているクラスメートを見ても私は泣けなくて、まだ明日も当然のように学校に来て、授業を受けるのではないかと思ってしまう。授業は既に終わっていて、2月はほとんど自宅学習期間だったわけだけれど、こうして卒業証書を手にして見ても、まるで実感が湧かない。 分かりたくないのかな、とも思う。斎藤君と私の進学先は違う。何の口実も約束もなく斎藤君に会えるのは今日まで。それは、この制服をもう着なくなることや、この校舎で授業を受けなくなることよりも、何よりも何よりも寂しいことに思える。 「例えば、もう会おうと思っても理由がないし」 「理由?」 三月の頭と言えば、まだまだ寒さの残る時期。屋上を容赦なく襲う強い風でばさばさと髪が躍る。意味はないと分かりつつも髪を押さえ付けて、一歩ずつ一歩ずつ、私は斎藤君に近付いた。そして手を伸ばして、自分より背の高い相手の髪をぐしゃぐしゃと撫でる。「な、何をする…」「あははっ、ぐっしゃぐしゃ」笑う私の右手を掴んで、乱暴に撫でるのをやめさせた。 中学から高校に上がり、疎遠になった友人はたくさんいる。今はもうどこで何をしているのか分からない人すらいる。今回もそうなのだろうか。高校から新しい場所へ行き、今はこうして笑い合ってる斎藤君ともいずれは疎遠になり、どこで何をしているのか、どんな友人がいるのか、何の勉強しているのか、今まで当たり前のように知ることのできたことが、分からなくなる日が来るのだろうか。そう、遠くない未来に。 「」 「うん?」 「理由がないなら作ればいい」 「え?」 「好きだ」 「……………は?」 いや、待て、この流れでそれはおかしい。一体この人は頭の中でどういう思考回路を経てそう言った言葉が出て来たのやら。…いやいや私の方が待て。そう言った意味での「好き」ではないかも知れない。さっきも言った通り、私と斎藤君は飽くまで三年間ずっと良きクラスメートだったのだ。ならば、その言葉の裏に「友人として」という一言が付け加えられていたとしても何らおかしいことはない。 けれど、至極真剣な表情をする斎藤君を見ていると、どうにも私の想像しているものとは違う気がしてならない。自惚れかもしれない、自意識過剰かも知れない、それでも期待をしてしまう。もしかして斎藤君は、って。 「会いたいから会う、では理由にならないのか、」 「あの、いや、斎藤君…?」 「三年だ。俺は三年を、だけを見て来た」 言うと、私の右手を今度は両手で大事に握り締める。風で強いお陰で、いつもは長い前髪に隠れて表情の読めない目と、まっすぐに視線が合う。その目や言葉とは裏腹に、僅かに声が震えているのは寒さのせいか、はたまた違う理由があるのか。けれどここまでされてしまえば私も信じざるを得ない、答えざるを得ない。私の右手を握る斎藤君の手に、私の左手をそっと添えた。 「偶然だね、私も斎藤君ばっかり見てた」 そこで初めて、私の目からぽたりと一粒だけ涙がこぼれて来た。こんなことならもっと早く言えばよかった、どうしよう嬉しい、でももう隣の席で授業を受けることも、帰りにばったり出会って一緒に帰ることも、もうできなくて、嬉しいのに寂しい。きゅうっと胸が締め付けられる感覚がして、途端にじわりと広がるのは切なさ。 突然泣き出した私を見ても、斎藤君は動揺したり戸惑ったりすることなどなく、優しく笑って私の目元をそっと拭う。大した量が出た訳ではない目元は、斎藤君と強い風のお陰ですぐに乾いてしまう。涙は出なくても切ないと思う気持ちは止んではくれなくて、ひたすらに音を立てて心が軋み続けた。 「会おうと思えば会える距離だ。さほどこれまでと変わらない」 「本当?」 「ああ」 「会いたいから、って斎藤君に会いに行ってもいいの?」 疑っている訳ではないけれど、嬉しくて、確かめたくて、何度も斎藤君に疑問文ばかりを投げつける。最初の内はうんうんとうなずいて聞いてくれていた斎藤君も、やがていつもの呆れ顔に戻り、私の額を軽く指で弾く。 「疑いすぎだろう。疑心暗鬼か」 「だって、まさかだったから、つい」 「つい、で人を疑うな」 「ご、ごめんね…」 ひりひりと痛む額もなぜか嬉しい。どれだけぎゅっと切なくなっても。斎藤君が大丈夫だと言うのなら、大丈夫な気がして来るものだから不思議だ。大丈夫、大丈夫。自分自身にも言い聞かせる。反芻するたった数文字の言葉で、涙は引っ込んで笑みになった。 会いたいなら会えば良い、それがそっくりそのまま理由になる。何とも単純明快ではないか。複雑に絡まりかけた糸は簡単に解けて、答えに辿り着く。好きなんだから好きだって言えば良い。会いたくなったら会えば良い。声が聞きたいならそう言えば良いのだ。ならば今、もうひとつ。 「斎藤君、キスしよう」 「な、何を言い出すんだいきなり…!」 「キスしたいからキスをする、ではだめ?」 意地悪にも訊ねてみれば、斎藤君は小さく咳払いをすると「目を閉じろ」と小さな小さな声で私に告げる。ゆっくりと瞼を下ろし、視界が塞がれる最後の瞬間、顔を近付けて来る斎藤君がほんの少しだけ見えた。 春はまだ、これから。 |