の呼ぶ方へ












 ホームルームも終わってふと窓の外を見れば、雨が降り出した。天気予報は晴れのはず。それが一体これはどういうこと。雨というだけで気分が落ちるのはきっとあたしだけではないはず。あたしは溜め息をついて鞄の中を探ってみた。けれど、いつもなら入っているはずの折り畳み傘が見当たらない。どうやら家に忘れて来てしまったようだ。よほどあたしの普段の行いが悪いのだろう。

 二回目の溜め息をつき、机の上に突っ伏した。屋外の部活に所属する生徒たちだけは何やら嬉しそうだけれど、生憎あたしは屋内の部活。しかも今日は休みと来た。雨がやむのでも待っていようか。それとも小雨の内に走って帰ってしまおうか。少し悩んだ結果、本降りになる前に帰ることにした。

 雨のせいで薄暗い廊下は、昼間からは考えられない湿っぽさがある。この雨の日特有の湿り気はなんとも気持ちが悪い。これから雨季になれば、こんな日が毎日続くのかと思うと憂鬱だ。俯くと落ちて来た髪を耳に掛け直し、あたしは靴箱から靴を取り出した。どのルートで帰ればあまり濡れずに済むだろうか、なんて考えながら軒先まで足を進める。何回目かの溜め息をつき、走り出そうと気合いを入れ直したその時、すぐ後ろからよく知った声が聞こえた。



ちゃん、暗い顔してどうしたの?」
「おおお沖田先輩!」



 気配もなく突如現れたその人に、あたしは驚いて飛び退く。するとわざとらしく「その反応、傷つくなあ」と笑って見せた。笑い事じゃない、一気に心拍数が上がってしまった。この人はいつもこうやって心臓に悪いことばかりをするのだ。

 再度「で、どうしたの?」と聞いて来るけれど、「傘がなくて走って帰ろうとしていました」なんて恥ずかしくて正直には言えない。またからかわれるに決まっている。沖田先輩に構われることは嫌いじゃないし、こうやってばったり会えて話しかけてもらえたのも、まあ、嬉しい。でもできれば自分のマイナスな所は見せたくないのがオトメゴコロというやつだ(いや、自分で言うのもアレだけれど)。あたしは答えられずに口篭ってしまった。すると沖田先輩は事情を察してしまったらしく、「ああ」と呟く。



「傘、忘れたんだ」
「…仰るとおりです」
「それで、走って帰ろうとでも思ってたところかな」
「…………」



 もう笑うしかない。雨の日に昇降口で傘も持たずに立っていたら、誰だってそこまで想像することは容易かも知れない。問題は今まさにそうしようとしていた所を沖田先輩に見られたこと。

 そうしている間にも段々と雨足は強まり、とうとう強い雨の音まで聞こえて来てしまった。これでは走って帰ればずぶ濡れは免れない。いよいよ帰るのにもなかなかの覚悟が要るかと思われたその時、沖田先輩はおもむろに傘立ての方へ歩いて行く。置き傘でもしているのだろうかと思い、その背中を見ていると、一本のビニール傘を手にしてぽつり。



「一本ぐらい借りても分からないよね」
「…いや、あの、沖田先輩?」
ちゃんも借りなよ。濡れて帰る気?」
「でも人の傘は…持ち主が困りますし」
「明日返せばいいんじゃない?」



 ああ、そういう人でした。妙に納得しつつ、「あはは…」とあたしは笑った。ちゃっかりもう一本ビニール傘を持ち、あたしに差し出す。それを丁重に断ると、「ちゃんも真面目だね」と笑って傘立てに傘を一本だけ返した。真面目と言うか、それが普通だとは思うのだけれど、沖田先輩の前でそれが通らないことは十分理解している。沖田先輩は結局、誰のものか分からないが手にしたビニール傘を借りて帰るらしい。じゃあ僕は傘を借りて帰るから、と言い残して去って行った。

 あたしはと言えば、誰か友人を待とうにも、全員部活に入っていて帰りは遅くなる。それなら走って帰った方がずっと早い。せめて沖田先輩が見えなくなるくらいにまで離れたら一気に走って帰ってやろう。こうなったら風邪を引くのも覚悟の上だ。ああ、でもそれなら方向が同じなんだし沖田先輩の借りた傘に入れて欲しかったかも…いやいや、それでは同罪だ。あたしの僅かな良心に従って断ったのに意味がない。



(沖田先輩だってただの後輩を同じ傘に入れる義理なんてないわけだし…)



 鞄を抱き締めてその場にしゃがみ込む。人の傘を勝手に借りるのは嫌だ。でも濡れて帰るのはもっと嫌だ。あたしにとっては究極の選択だった。鞄に顔を埋めて考えるも答えは出ない。と、あたしの前に一つの影が落ちる。顔を上げてみれば、喉を鳴らして笑う沖田先輩がいた。かあっと顔が熱くなる。



「最初から言えばよかったのに、“入れて下さい”って」
「な…っ!」
「ほら、どうする?」
「どう、て…」
「僕は入れてあげても良いけど、言ってくれないと分からないなあ」
「…………」



 普段の数倍楽しそうに笑ってあたしを見下ろす沖田先輩。分かっているのにこんなことする所は本当にらしいと思う。構われるのが嫌じゃないっていうあたしもあたしだ。少々、いや、大いに神経を疑ってしまう。実はあたしってば被虐趣味があるのかも知れない。沖田先輩のみだけど。

 あたしが固く口を閉ざして答えかねていると、一層笑みを深くする。たった一言「入れて下さい」を言うにもどれだけ勇気が要るかなんて、きっとこの人には想像できないのだろう。声を掛けられる度、驚かすために背中を押されたり肩を叩かれる度、思わせぶりな態度をとられる度、あたしがどれだけどきどきしているかなんて、きっとこの人は知りもしない。いや、沖田先輩の場合それを見越してやっているという線もなくはない。だって、沖田先輩だから。

 とうとうあたしが「入れて下さい」と控え目に言えば、「聞こえない」と笑う。もう一回「入れて下さい」と言ったけれど「まだ聞こえない」と答えが返って来る。いや、二回目はさすがに聞こえていただろう。絶対に聞こえていたはずだ。それでもまだ「聞こえない」を繰り返す沖田先輩。どうやらこの人が納得するような言い方をするまで、傘に入れてはくれなさそうだ。あたしは恥ずかしさで少し涙目になりながら、ヤケを起こしてとうとう叫んだ。



「だから!入れて下さいって!言ってんです!」



 叫んだ瞬間、思わず立ち上がる。沖田先輩はそれはもう面白いものを見たかのように笑っていて、恥ずかしくて恥ずかしくて今すぐにでも雨に溶けて消えちゃいたい気分になった。勢いで「沖田先輩なんて嫌いです」と呟いてしまうと、そういう言葉は聞き逃さない沖田先輩は「あれ?」と言って顔を覗き込む。急に近付いた顔にあたしは半歩後ずさった。やっぱりこの人、分かってやっているのではないだろうか。そんな思いが頭をよぎる。



「そんなこと言っていいの?もう入れてあげないよ」
「べ、別にいいですよ!走って帰ります!最初からそのつもりだったし…」
ちゃんの場合、道で滑って転びそうだけど」
「先輩はあたしを何だと思ってんですか」
「変な所で抜けてる子」



 そうだったのか。沖田先輩てばあたしを抜けてる子だと思って見てたのか。そりゃ、必要以上の好感は持たれていないとは予想していたけれど、まさかそんなイメージがあったとはさすがに少しショックだ。脈の有る無しどころか、多分沖田先輩には“からかいがいのある面白い生き物”程度にしか思われてないのではないだろうか。

 何度目か沖田先輩の言葉に打ちのめされていると、「だから」と付け足す。



「僕が近くにいないとね」
「…見張られているわけですか、あたし」
「君、なかなか自虐的だよね」



 加虐的なあなたのいう台詞ですか、それ。そう言いかけた口を、だけど自分で止める。これでまた「入れて下さい」に逆戻りしたら今度こそ雨の中を走って帰った方が恥ずかしさも冷めるだろう。すみません、となぜかあたしは謝罪を口にしてしまう。すると沖田先輩はあたしの腕を引っ張り、今度は額がくっつきそうなほど顔を近付ける。声にならない叫びを上げて身を引こうとするが、思いの外強い力に身体は動かない。そして雨の音にかき消されそうなほどの声で沖田先輩は言った。



ちゃんを守ってあげないと、って意味」
「ま…っ」



 回路を瞬速で火が伝って行くように、頭のてっぺんから爪先までが一瞬にして熱くなる。まるで爆発でも起こしたかのように顔は真っ赤になる。何か言おうとしても言葉が出て来なくて、ぱくぱくと魚のように口を動かすだけ。けれど今度は沖田先輩はからかいの言葉の一つも言わないで、「じゃあ帰ろうか」なんて、さっき言ったことはまるで嘘のように普段通りに振る舞う。あたしは「はい」と答えるのが精いっぱいで、引っ張られていた腕がそのまま手を繋ぐ状態になっていたことには気付かなかった。それにようやく気付いたのは家の前に着いて手を離した時だ。帰り道で沖田先輩と何を話していたかなんて殆ど覚えていない。「また帰ろうね」と言われたことだけはやけに覚えている。

 けれどようやく熱が引いて落ち着いて来た頃に我に返る。沖田先輩にとってあの言葉は“後輩を”とか、よく言って“妹みたいだから”という意味かも知れない。危ない、また早とちりしてしまう所だった。あの人の妙な言い回しには注意しないと、っていつも思っていると言うのに。どっちにしろ、沖田先輩の射程範囲内に入るには相当な努力が要ると言うことだろうか。

 一人舞い上がった自分をまた恥ずかしく思いながら、至近距離で見た沖田先輩の顔を思い出しては赤面するのを止められなかった。




















(2010/4/11)