退学するんだ、と彼女に告げたのは、夏が近付き汗ばむ夕方だった。この時期は、一日の終わりに自販機で冷えたジュースを買うのがささやかな楽しみであり、自分へのご褒美だ。けれど今は、彼女に打ち明けた緊張と暑さで、じとりと肌が湿っている。そして、人のことに干渉しない、人の決断にさして驚くことのない彼女が、私の報告を聞いてまだ中身の入った缶ジュースを落とした。今なんて、と聞き返した彼女にしたのは、相談ではなく決定事項の連絡だ。

「夏休みが終わったら、退学するの」
「なんで」

 低い声で理由を問う。これまでなんでも相談して来た私の初めての事後報告に、怒っているのは明白だった。
 自分の体に異変が起きていることは、もう数ヶ月前から気付いていた。きっと五条先生もそれは察していて、けれど私から話すまで放っておいてくれていた。私はまだここで頑張れると自分でも思っていたから、答えを先延ばしにしていたのだ。けれど、とうとう誤魔化しが効かなくなって来た。
 自分の呪力が落ちて行っている―――点滴のボトルから中身が減って行くように、私の中から呪力が無くなって行っているのだ。このまま行けば、あと半年もしない内に私の呪力は枯渇する。

「向いてないみたい、呪術師」
「分かりやすい嘘つくんじゃねえよ」
「…………」
「何年の付き合いになると思ってんだ」

 こっちにも誤魔化しが効かないな、と思った。
 彼女は―――真希ちゃんは、禪院の家に生まれながら、生来呪力がない。けれど、その突出した身体能力で全てをカバーしている。だからここでもやって行けているし、いずれ昇級し、禪院の当主になることも夢ではないだろう。
 けれど私は違う。呪力がこのまま枯渇してしまえば、私はもう呪術師としてはやって行けない。それを、真希ちゃんに打ち明けることはできなかった。

「本当のことを言え、
「…呪力が無くなって行ってるの。その内、術式も使えなくなる」
「なんだ、それ…」
「なんだろう…なんだろうね」

 わたしにもわかんないや。そう言って笑って返した。笑うしかなかった。
 私の家は禪院の傍流で、もう殆ど血縁関係もないような分家も良い所だ。だから、両親は呪術高専への入学を強要も推奨もしなかった。両親自体も呪術高専を出ながら、呪術師として活動したのはごく僅かな年数だと言う。それでも勿論、禪院家からの干渉も圧力もない。だけど、幼い頃から交流のあった真希ちゃんがここに入学すると聞いて、私も同様にこの進路を選んだのは確かだ。自分から勘当されに行ったようなやり方で家を出て、自分の生き方を決めた同い年の親戚。影響されないはずがなかった。

「何かあるだろ、何か、続けられる方法が」
「前例がないからなあ…」
「私を前にして言うか?」
「私は真希ちゃんじゃないからきっと無理だよ」
「だからって事後報告はないだろ!」

 真希ちゃんがこんなにも私に怒ってくれるのは初めてだ。それだけでもう、たった二年だけでも真希ちゃんと同じこの高専に通えて良かったと思う。私は決して高い志を持って入学したわけではない。その後に付随して来る色んなものはあったけれど、学校生活に真希ちゃんがいることはとても大きかった。昔から仲良くしてくれていたけど、同じ学校で同じように時間を過ごすに連れ、どんどん彼女と言う人間に惹かれて行ったのだ。呪力がなくなることそれ自体は、さほどショックなことではない。呪力がなくなることで、真希ちゃんの近くにいられなくなることが辛かった。私の学生としてのモチベーションは、どうしても下心でできていたらしい。

「考えろよ、ここにいられる方法を」
「珍しい、真希ちゃんが人のこと引き止めるなんて」
「話逸らすんじゃねえ。大体、今更が普通の高校に転入して上手くやれんのかよ」
「そう言われると無理な気がして来たなあ」

 今更、一般人になんてなれないことは私が一番よく分かっている。呪力が底を尽きてしまおうと、感覚は一般人には決してなれやしない。何かある度にきっとここの皆のことを思い出してしまうし、その時に真希ちゃんと一緒に戦えないことは歯痒い。真希ちゃんの身を置く世界と別の世界に行ってしまいたくないのが本音だ。だからって、ここにいて何になると言うのだろう。呪術師として役に立たない私が、ここで何ができるのだろう。
 それなら、私の身を案じてくれている両親のためにも、俗世に戻る選択がきっと誰も傷付かない。寂しい思いをする人がいてくれるとしても。

「ここにいろよ、補助監督とか事務員とか、何かあるだろ、できることならいくらでも」
「腐っても禪院の血が流れてるし?」
「なんでこんな時に冗談言えるんだよ…」
「真希ちゃん、私たちの人生は長いね」
「はァ?」

 まだ二十歳にもなっていない私たちには、これからもっと苦しい選択がたくさん待っている。呪術高専入学を決めたこと、呪術師を目指すことを決意したこと、それを諦めたこと、退学を選んだこと。その全てにおいて、頭の中には真希ちゃんの顔がちらついた。だからきっと、もし今回のことがなかったとしても、私はこれから先も何かを選ぶ時にきっと真希ちゃんを思い出してしまう。きっと、任務中にも真希ちゃんを優先してしまう日が、遠からず来てしまう。それは、間違いなく呪術師の適性から外れているのだ。

「長いから、今別れてもきっとまたどこかで会えるよ」

 そんなもの、ただの願望だ。この世界から離れてしまえば、また生活の中で今ほど密に関係を保てることなんてきっとない。彼女もそれは分かっているのか、相変わらず怒りを露わにした表情を崩すことがない。
 コンクリートに落下したアルミ缶から漏れ出したジュースの染みは、もう乾き始めている。彼女たちが呪術高専を卒業する頃には、きっとこんな風に私がいたこともなかったみたいになっているのだろう。そんな二年後の未来を思うと、堪らなく胸が痛んだ。