「傷の舐め合いだと思う?」


 はティエリアの腕の中で尋ねた。
 二人以外は誰もいない、静まり返ったトレミーの展望室。部屋に彼女の姿が見当たらないので探していたのだが、彼女はたった一人で深夜のそこにいた。よほど深刻に考え込んでいたのか、ティエリアが声を掛けるまで、そんなは気付かなかった。がティエリアの姿をみとめると、体を預けるようにティエリアに凭れる。そんな彼女の髪を撫で、ティエリアもまたただっ広い宇宙を眺めた。沈黙のまま数分経っただろうか、は体を離すと、今度はティエリアの胸に顔を埋める。またえらく甘えて来ると戸惑ったが、今日がいつだったかを思い出した。


(ああ、“今日”か…)


 日付は変わったばかりだが、四年前の今日は彼女が恋人を喪った日だ。だからか、ここの所はぼうっとしていることが多かった。トレミー内の誰しもがそれには感付いていたから心配していたのだが、は自覚がなかったらしく、いつも通りに過ごせているつもりだったのだろう。ぎこちない笑顔が痛々しかった。
 そして、冒頭の言葉に戻る。


「都合の良い女だよね、私」
「そんな事はない」
「世間では尻軽って言うんだよ、私みたいなやつのこと」
「世間なんて関係あるものか」


 四年という月日が経っても、傷を完全に癒すことなど不可能に等しい。嫌われた訳でも別れを告げられた訳でもない、永遠の別れというのは何よりも残酷だと思う。残されたは当然揺れた。まだ思い出にはできない彼。忘れられない、忘れたくない彼。今でもどこかで求めてしまう彼。彼の人と共有した過去の幸せは薄らぐことなく、どれだけ笑っていても、どれだけ楽しくても、彼がいたらもっと良かった、なんて考えてしまうのだ。過去という言葉を使いたくなどないほどに。
 今、の考えていることが手に取るように分かった。きっとこうして彼女を優しく抱き締めることも、自分ではなく彼であるはずだったのだと。自分は代わりなのかも知れないと。


「いいんだよ?冷たくなじってくれて」
「そんなことできる訳がない」
「…優しいんだ」
「それは違う」


 ティエリアだって自分の気持ちくらい分かる。自分が好きでの傍にいるのだ。好きでもない相手にこんなことができるほど器用ではないし、優しくもない。だけどは疑う。それは仕方のないことで、別れた訳でもない相手がいたのに、その人が消えたからと言って別の人間と幸せを得るなど、簡単にはできない。誰よりも彼女が彼を裏切ったと、彼女自身を許せないのだろう。
 優しいのは彼女の方だ。負い目を感じたままティエリアに全てを委ねることなどできず、違う人を片隅で想ったまま愛することもできず、四年間ずっとジレンマと闘っている。彼女は時に酷く慎重になり過ぎる。自分のしていることが他を傷付けていないか、頼り過ぎていないか、甘え過ぎていないか。この四年間、少なくともティエリアに対してはずっとそういう態度だった。けれど、どれほどが彼を想っていたかを知っているからこそ、自分も無理に彼女に求めたりしない。それでも時折ふと思うのだ。もう、も自分も解放されていいのではないかと。当然、そんな考えは大概瞬き一つで消えるようなものなのだが、こうして彼女の寂しそうな所を見たりだとか、間近に体温を感じている時は、どうしても考えずにはいられない。


「君の幸せは彼の幸せだ」
「違う人とでも?」
「ああ」
「どうして?」
「分かる…彼と僕は同じだから」


 同じ…と呟くように反芻する。閉じた瞼裏に映っているのは、脳裏に浮かんでいるのは、一体どのような景色なのだろう。自分とは決して見たことのない、様々な色も見て来たに違いない。
 思えば、彼女は彼の存在しない世界で生きたことはなかった。彼よりいくつか年下のは、四年前までずっとどこかに彼のいる世界で生きて来たのだ。けれど、彼の過ごしたのいない世界で生きた年数とは比べ物にならないほど長い年月を、彼女はこれから過ごして行く。何度四季が巡り、何度誕生日を迎えても、もう世界のどこを探したって見付からない。
 自分は、とも彼とも同じだ。と同じように彼を信頼し、彼と同じようにを愛している。だけど、もし彼の立場が自分だったら、やはりの幸せを何よりも願うと思うのだ。彼女の隣を歩けない、彼女の隣が自分の場所でないのは寂しくもあり、悔しくもあり、辛い。けれどそれよりもが本当の幸せを得られないまま生きて行くことは、それよりも苦しい。彼も優しい人だったから、きっとに自分をずっと愛していて欲しいと思う反面、誰よりも幸せになって欲しいと願うだろう。たとえそれを叶えるために傍にいるのが、自分でなくても。


「夢にね、あの人が出て来たよ」
「…夢で彼はなんて?」
「忘れないで欲しい、けれどが幸せになるために俺の影がちらついて邪魔なら、一切忘れてくれって」
「……」
「わけ、分かんないよね。願ってるのかな、私が。私がティエリアを愛して、ティエリアと幸せを得たいから、その口実にしたいだけなのかな。私って、ほんと…っ」
…」


 段々と涙声になるを、一層強い力で抱き締める。気の利いた言葉など何も浮かばなくて、を抱きながらティエリアもまた目を閉じた。すると鮮やかに甦るのは、あの頃の彼と
 こんな時、彼ならにどんな言葉を掛けたのだろう。溢れて止まらない涙を拭って笑顔にする術は、或いは彼なら持っていたのかも知れない。が言動一つ一つに彼と自分を重ねて比べてしまうように、の言動一つ一つに対する自分の態度を彼と比べてしまう。
 彼女にとっての一番の幸せは、きっと全てが終わってから彼と生きることだった。それなら今は。今、そしてこれからの彼女にとっての最大の幸せは、どう生きて行くことなのだろう。彼なしでもが幸せになれる世界を、自分は作ることができるのだろうか。


「僕は、待っている」
「え?」
「彼の幸せが君の幸せであったように、僕の幸せも君の幸せだ」
「ほんと…?」
「ああ」
「時間、かかるかもよ?」
「構わない」
「その間も我儘いっぱいいうかもよ?」
「分かっている」


 何それ、と言って小さく笑った。涙で赤くなった目で、けれど穏やかに。
 ティエリアも小さく笑って返すと、もう一度強く抱き寄せると、は辛うじて聞き取れるようなか細い声で言った。

「あなたを愛したい」












清音を




(2009/3/27)