朝、目が覚めて最初にわたしは携帯のチェックをする。仕事、友人、家族、いろんな人の連絡先がこの携帯には入っているけれど、毎朝毎晩携帯を確認する度に期待しているのは、たった一人しかいない。そのたった一人からの連絡を待ち続けて二年。未だ音沙汰ないいつもどおりの朝のはずなのに、携帯を閉じて不意に涙が出た。そしてベッドサイドの卓上カレンダーを見て気付く。わたしとティエリアが出会った日だった。































 今の職場を辞めようと決心したのは、先日エーカーさんと話した後だ。

 わたしが現在借りている部屋は学生時代の時からのものだった。しかも正しく言えばわたしの部屋ではなく、家賃を払っているのはティエリア。どういう訳か、家賃の振り込みは毎月きっちりされている。

 経済的に余裕のなかった学生時代のわたしは、安いワンルームのアパートに住んでいた。しかも駅や学校には少し遠く、街灯も少なくて治安もあまりよいとは言えないような所だった。そんなわたしを引きずって引っ張ってこの部屋に連れて来たのがティエリアだ。家賃を見ればとてもじゃないが、わたしがどれだけバイトしてもその他生活費を込めると赤字になるような部屋。けれど家賃はこちらで持つと言い、少々強引に今のマンションにやって来た。わたしが就職するまで、という約束のはずだったのだが、就職した今もまだ家賃はティエリアの方から振り込まれている。

 メールが宛先不明にならないことといい、これではティエリアがどこかで生きているということに希望を持たずにはいられなかった。就職したてのわたしは毎月のお給料だって満足にはもらえないし、結局この二年間は五年前からの好意に甘え続けていた。

 けれどそれももう終わりだ。いつまでもここにいては離れられなくなってしまう。にも言われたとおり、いい加減現実を見なければならない。エーカーさんのようにわたしによくしてくれる人だっていつまでも現れるわけじゃない。

 エーカーさんは良い人じゃないか。これまでわたしに交際を申し込んで来た人たちは断れば諦め、連絡も絶ったけれど、エーカーさんはその後もわたしを心配してくれたり、職場によく顔を見せに来てくれたりと交流がある。ティエリアが帰って来るのではないかという希望や期待を捨て切れずに、職場もここから近い所を選んでこの部屋に住み続けているけれど、それももう終わりにしようと決めた。

 この部屋を離れる。それはこの町を出て行くということ。ティエリアと出会い、過ごしたこの町をわたしは出て行く。エーカーさんはいつまででも待っていてくれると言った。それなら彼と付き合うのも良いかも知れない。付き合う内に惹かれて行くかも知れない。そう、ティエリアの時と同じように。




(だめだ)




 何かにつけて、わたしはティエリアを思い出してしまう。わたしはティエリアしか知らない。他に比較対象がいなければ、それだけの経験も何もない。そうだ、この五年間ずっとわたしにはティエリアだけだった。どれだけ会えなくても、話せなくても、メールしかできなくても、ティエリアだけだった。わたしの一番大きな支えになったのはティエリアだったのだ。

 そんな彼を、今更わたしは忘れられるのだろうか。こんな風に彼を引きずったまま、他の誰かと付き合い、結婚し、やがては子どもを産み、一緒に年を重ねて行くことができるのだろうか。それとも、上から塗り潰すように他の誰かと過ごすことで消して行くことができるのだろうか。それさえしたことがないわたしには、何の可能性も見出すことができない。




(有給なんてとるんじゃなかった…)


 引っ越そうと決めた意志は固いはずだった。今日は残ってる有給を消化してやろうととった休日だった。その時間を使って引っ越す準備をするつもりだった。退職届も書かないといけないし、新しい仕事も、新しい部屋も探さないといけない。なんだ、部屋の片付けなんてそれからじゃないか。優先順位なんて考えればすぐに分かるはずなのに、なんでこんなにも焦っているのだろう。

 組み立てた段ボールを前に、何をすればいいのか途端に分からなくなる。何をしているのかも分からなくなる。

 わたしはどうしたいのだろう。どこへ行きたいのだろう。ただ、会いたい人だけが明確で、でもその人には会えなくて、それならもう諦めるか別の方法を考えるしかないに決まっている。それをわたしはいつまで固執しているのだろうか。時と場合によっては諦めも肝心だ。たった一人に拘っていれば見えるものも見えない。

 だけどそれでもいいと思うほど、盲目的なまでにわたしはティエリアを待っている。馬鹿だ。気付いた時にはもう遅かった。引き返せないほどわたしの中にティエリアが根付いてしまっている。過ごした時間なんてたかが知れている。そんな相手になんでこんなにも期待をしているのだろうか。




「もうやだ…」




 隣に置いている携帯を震える手で掴み、アドレス帳を開ける。ティエリアの名前を探し、削除ボタンを選択した。

 今アドレスを消せば、もうメールを送ることはできなくなる。メールも全部削除すれば、連絡先は全部分からなくなる。そうすれば少しは期待も希望も薄らぐかも知れない。まるで強迫観念に駆られるようにティエリアにメールを送り続けることもしなくなる。そうすれば、他のことを考える時間が増えるだろう。他の人を見ることもできるようになるだろう。そうして、やがて忘れて行くのだ。ティエリアと過ごしたことも、この部屋のことも、ティエリアの手の温度や声も、全部忘れて行くのだ。

 けれど、できなかった。どれだけ削除にエンターを打とうとしても無理だった。代わりに探してたのは、昨日も会ったばかりの人の名前。もう誰でもいい。今、一人でいたくないのだ。目に溜まる涙で画面は滲む。そして今度こそ、電話の発信ボタンを縋るようにしっかりと押した。








* * * * *








「驚いたよ、まさか君からSOSを受ける日が来るなんてね」
「すみません…」




 涙声でエーカーさんに電話をすると、「すぐに行くから待っていてくれ」と言い、ものの二十分も経たずにこの部屋へ来てくれた。余程急いで来てくれたのだろう、部屋のドアを開けて見上げたエーカーさんの額にはうっすらと汗が浮かび、息も荒かった。

 それを見て、わたしは最低なことをしているのだと急に大きな罪悪感に駆られた。自分に好意を寄せてくれている相手を、私情で呼び出したのだ。しかも相手が仕事かどうかなんて確認もせず、だけどエーカーさんのことだ、わたしが泣きながら電話をすれば来てくれないはずがなかった。そこまで考える余裕がなかっただなんて理由にならない。わたしは、最悪な女だ。




「構わないさ。奇遇なことに今日は私も非番だった」




 見え透いた嘘を平気な顔をしてつく。その証拠にさっきから何度もエーカーさんの携帯は鳴り、その度に居留守を使っている。そしてとうとう、電源ごと切ってしまった。この期に及んで「遠慮せず出て下さい」なんてわたしが言える訳がなく、携帯の電源を落とすその様子を黙って見ていることしかできなかった。




「それで、何か悩んでいる様子だが?」
「引っ越そうと、思うんです。仕事も辞めて」
「なんだって?」
「この部屋、元々は彼が借りたもので、今も家賃は彼に振り込まれているんです。だから、もう、いるのも辛くて…っ」




 一度は引っ込んだ涙がまた洪水のように溢れ出す。ぽたぽたと音を立てて床に落ちた。それは弾けて小さな水たまりを作り、繋がっては広がって行く。エーカーさんは何も言わなかった。俯いて涙を流すわたしを引き寄せて、落ち着くまでずっと背中を叩いていてくれた。

 本当はずっと諦めたかった。もうティエリアがこの部屋に戻って来ることはないのだと、薄々気付いていたから。帰って来ない人を待ち続けるのは自分で感じている以上に辛いことで、毎日期待をしてこの部屋のドアを開けても毎日裏切られている。携帯だってそうだ。休憩時間にロッカールームで携帯を真っ先に開けるのは、もしかしたらティエリアからメールの返事や着信があるからかも知れないから。でも、それだって毎回毎回裏切られている。わたしに期待させることも、わたしを裏切ることも、ティエリアは得意なのだ。

 だから、もうティエリアなんて愛想を尽かしてしまえれば楽なのだ。新しい人生、というと大袈裟かも知れないが、新しい恋でもすればよかったのだ。元々、今度はいつ会えるか分からないような人をどうして好きになってしまったのだろう。どうして、今だってまめにメールなんてしてしまうのだろう。

 それこそ、「会いたい」と送り続ければ会うことは叶ったのだろうか。




「引き払って、それで次の行き先は?」
「…ない、です。実家とは疎遠だし、だから、自力で…っ!」
「なら、どうやら君は順番を間違えたようだな。次の仕事と次の部屋を見つけてから片付けるものだ。なに、修正くらい今からでも遅くないだろう」
「はい…」




 だからもう泣かないでくれないか。

 わたしの目尻を少々強く拭って、エーカーさんは困ったように笑った。つられて、わたしもへらっと笑う。すると、今度はわたしの腕を掴んで立たせると、「では出かけようではないか!」といつもの調子で言い、わたしを連れ出した。行き先も告げられず、またいつもの調子で車の助手席に押し込まれた。どうやら彼のペースに元通りらしい。

 しかし、彼を呼んだのはわたしだ。今回ばかりは、いや、いつもだってそんなことはしていないが、嫌な顔なんてしてはいけない。わたしの我儘を聞いてくれたのだ、今度はエーカーさんの我儘にも付き合おう。それがフェアと言うもの。わたしの涙が止まったのを見て、エーカーさんは満足そうに笑った。わたしも同じように笑って返す。

 この人を好きになれたなら、どれだけ幸せなのだろう。この人ならきっとわたしを幸せにしてくれる。わたしを待たせることなんてしないし、期待を裏切るようなこともきっとしないのだろう。わたしが気持ちを注いだ分だけ、いや、それ以上のものを返してくれる人なのだ。今日だって、わたしには他に想う人がいることを知っていながら、仕事を途中で切り上げてまで来てくれた。軍人だって暇な訳がない。本当ならば今、こうやってわたしとお茶なんてしている場合ではないのだ。

 もしかしたら、という希望が一つ、頭に浮かびあがる。




「エーカーさん」
「何かな」




 伏せていた目を、俯いていた顔を上げ、まっすぐにエーカーさんを見た。

 青い目の奥のその真意を、いつもわたしは分からずにいた。いや、分かろうとしなかったのかも知れない。知ればこれ以上拒むことができなくなるような気がしていた。揺るがないその強さに惹かれてティエリアを待つことを決めたのと同じように、今、目の前にいる彼と過ごすことを自分が許してしまうような気がして、わたしはそれが怖かった。ティエリア以外の誰かを好きになる自分を許せなかった。

 けれどそれはエゴだ。ティエリアを待つことはわたしが決めたことで、ティエリアは責められるべきではない。最初からわたしがわたしの意思で決めたことならば、これ以上重ねてもどうせ同じ。ここで今、ティエリアを切り捨てることになっても。




「わたし、エーカーさんと居たいです」


















(2010/2/28)